こんなことを言うと三枝師匠が怒ってくるかもしれないが、落語というのは確かに敷居が高い。観るほうもしっかり下準備をしないといけないような、そんな雰囲気がある。加えて、古典落語には古い言葉がたくさん出てくるので、その意味を掴むのも難しい。ということから、落語を観るときは、客にも相応のスキルが要求されると言えるだろう。わけもわからず米朝師匠や文枝師匠の落語を聞いても、もったいないだけである。
予てから古典落語の敷居の高さを憂えていた三枝師匠は、創作落語というジャンルを切り拓き、ネタを現代に合わせることによって、少しでも敷居を低くして、多くのお客さんに楽しんでもらおうとした。それでもやはり、客には最低限のスキルは要求される。落語の内容を聴き、自分の中で物語を再構成しながら、演者と世界を共有する。そうして初めて落語というものが楽しめるのだ。
世の中には、面白くないのに残っている芸人がいる。例えば、リットン調査団がいい例だ。それは、彼らが面白くないのではなく、観る側のスキルがついてきてないということなのだ。つまり、リットン調査団は客を置いてきぼりにして自分たちだけ先に行ってしまっているのである。芸人としては最悪だが、観客に迎合しない、我が道を行くその精神は尊敬に値する。
さて、エンタの神様である。
この間観てて思ったのだが、この番組は、スキル0(ゼロ)の視聴者のためのお笑い番組だなと。つまり、お笑いに関して何の知識もなく、人から伝え聞いたことを自分の中で再構成できない、演者の言うことをテロップの助けを借りてとりあえず右から左へと脳内に通して、面白ければ笑う。そういった視聴者のために存在する番組だとつくづく思った。
観る側に何の苦労もさせない番組というのは、一見すると素晴らしいように思えるが、実は何の役にも立たない。右から左へただ流れていくだけで後には何も残らない。そして残念ながら、この番組で視聴者のスキルは上がらない。
しかし、視聴率があるということは、こういう番組を必要としている視聴者がいるということなので、エンタの神様という番組の存在意義は認めざるを得ない。
高視聴率番組は、どんなに内容が酷かろうと、出演者が使い捨てにされようと、数字を取る限り永遠に続く。エンタの神様を終わらせる方法はただ一つ、視聴者のスキルを上げることである。そうすれば、自分が観ていた番組が、実につまらない、お笑いにとって何の役にも立たない番組であったことに気づくはずだ。
もし、エンタの神様を観て、お笑いに興味を持った方々は、ぜひエンタの神様をステップにして、他の番組でスキルを上げて欲しい。世の中、もっともっと面白いお笑いはヤマほどある。そして最終的に、古典落語を聴いてみて欲しい。そこには、日本の文化としてのハイレベルなお笑いが待っている。