ポジショニング

面白ければテレビに出られるか、答えはノーである。
何度も言うが、芸人の本分は舞台である。が、これだけ無料で観られるテレビが発達してしまえば、活躍の場をテレビに置かざるを得ない。
笑いという己の芸の成果をストレートに受け取れる舞台と違って、テレビのそれは反応が実にわかりにくい。自分の意図に反して、テロップや編集などをされてしまうこともある。となるとテレビの方が難しいように思うが、面白くなくてもテレビには出られるのだ。それには、ポジションというものが重要である。
青木さやかがバラエティで活躍しているのも、そのポジショニングに当てはまったからである(彼女が面白くないとは言っていない)。毒舌の女性芸人という、長い間空白になっていたポジションに、青木さやかは収まったのだ。
長年女性に嫌われている出川哲朗がテレビに出続けているのも、嫌われキャラというポジションを彼が獲得しているからである。同じく、ダチョウ倶楽部の上島竜平も、ヨゴレ芸人というポジションを獲得している。
最近、安田大サーカスが注目を浴びているが、彼らはかつてのダチョウ倶楽部のポジションに収まろうとしている。出オチ、ヨゴレ、キャラクターにも個性があるので、今後の活躍に期待が持てるが、かなり仕事的にも厳しいポジションなので、身体を壊さないようにしてほしい。
ポジションを得たからといって、そのポジションを維持できるかといえば、これまたそうではない。それには、他の芸人との絡みが必要になってくる。
コンビ芸人はボケとツッコミのスキルを活かし、MCから振られればボケ、MCがボケればツッコむ。ピン芸人は持ちギャグやトークのスキルを活かし、MCとのタイマンで勝負する。
ギター侍は、その点かなり厳しいものがある。ピン芸人はもともと話術があるので絡みやすいが、彼は音楽ネタなのでその類ではない。それに、エンタの神様というバイアスとテロップの助けがあってこそ、という感じがまだまだあるので、早くその呪縛を解いて独り立ちしていってくれることを望む。
芸人が、ネタ見せだけで食える時代では、残念ながらなくなってきた。もはやテレビは必要不可欠である。だがしつこいようだが、芸人の本分は舞台である。目の前の客が笑わないのに、電波の向こうの視聴者が笑うわけがない。面白くなくてもテレビには出られるが、舞台に上がるのは面白い芸人だけである。舞台とテレビ、この似て非なるものを制することによって、芸人は天下を獲ることができるのだ。

PSY・S 「TWO HEARTS」

フェアライトを操るテクノの申し子松浦雅也と、パワフルでキュートなヴォーカルCHAKAが85年に結成したユニットPSY・Sは、デビュー以来数々のスマッシュヒットを飛ばし続けた。これは初のベストアルバムである。
当時、他に追いかけるミュージシャンが多かったため、サイズはベストでいいやと思っていたが、各店で品切れが続出、手に入れたのは発売から相当経ってからだった。みんな同じことを考えていたのだろう。
収録曲は全てリミックスが加えられ、オリジナルに似たものもあれば遠くかけ離れたものもある。どれもオリジナルより生っぽい印象がある。賛否はあれど、サイズサウンドを充分堪能できるアルバムには違いない。学生の頃、寮の部屋でよく聞いていたので、今でもサイズを聞くとあの頃の甘酸っぱい気持ちが呼び起こされる。
“Desert”はオリジナルのほうが好きだったと言ったあの人は、今頃どこでどうしているのだろう(しみじみ
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アメリカ大統領選挙

正直なところ、ブッシュに決まってほっとしている。別に支持しているわけではない。ただケリーが嫌なだけである。
西海岸、東海岸の富裕者層は民主党を支持、中央部は共和党支持という、アメリカは見事に分断された。内政は私の関知するところではないが、対外的には、つまり日本としてはブッシュのほうがいいわけである。
で、私はなぜブッシュを消極的支持に回ったかというと、ケリーが生理的に嫌だったからである。政治的手腕や主義思想などは関係ない。なんか嫌、だったのである。
こういう直感は、意外と当たったりするものだ。
分相応という言葉がある。あまりいい言葉ではないが、一国の元首たるもの、それなりの風貌が必要である。こういうと、政治を見た目で決めるのかと言われそうだが、例えば日本の選挙でも、政策を比較して投票に行く人が果たして何人いるだろうか。
選挙は事後評価でも構わない、と思う。もっと端的に言えば、現政権の信任不信任だけで充分なのだ。投票に行かない人は、消極的支持として信任に票を組み入れれば、投票率も上がるだろう。
政治家を管理職とするなら、国民は現場である。現場を良くするのが政治家の仕事であり、現場の状況を報告するのは国民の仕事である。
悪くなれば首をすげ替える、ということでいいんじゃない?

島田紳助暴行事件

正式に刑事事件として立件されたので、遺憾ながら島田紳助の敬称を削除する。
被害者側についた弁護士というのが、横山ノック氏を再起不能に叩きのめしたあの雪田樹理弁護士である。DVやセクハラに関しては史上最強の弁護士といえよう。
ただ、ノック氏が完全にセクハラであったのに対して、今回の一件は普通の暴力事件である。だが恐らく、弁護側はあらゆる手段を使って論破してくるであろう。
ここで被害者の当日の行動について書き記しておく。殴られた被害者は、自分で救急車を呼び、病院で診断書を書かせて、その足で警察に被害届を出したという。例えば、私が同じように暴行を受けたとしても、こう手際良くはいかない。かなり手慣れているとしか言い様がない。
島田容疑者は、記者会見で100%自分が悪いと言った。確かに、暴力はいけない、と建前ではみんなそう言う。だが今回、果たして本当に100%島田容疑者が悪いのだろうか。
被害者の女性は、吉本興業の社員である。社員であるなら、初対面のタレントに対して、まず挨拶をするのが礼儀ではないだろうか。どういう会話がなされたのかは定かではないが、この会話によって、島田容疑者の女性への印象はかなり悪かったと思われる。
そして、会話の最後に自分が吉本の社員だということを明かして、島田容疑者がぶち切れたわけである。島田容疑者としては、それまでの会話が吉本の社員から出た言葉として、許せないものだったのだろう。
そこが局内のロビーであったため、島田容疑者は自分の楽屋へと連れて行く。これは、一目につかないところでぼこぼこに殴るためではない。人が人を叱るとき、例えば上司が部下を叱るときは、大衆の面前ではなく、プライベートな空間で叱るべきものである。それが叱り方というものだ。
しかし、被害者は自分がなぜ叱られているのかが理解できていない。一体私が何を言ったの?くらいの認識であろう。それが島田容疑者を更に激高させた。
自分の行動がわからないくらい、島田容疑者は怒り狂っていたのだろう。覚えていないのだから、記者会見で言ったことも間違いかもしれない。それを、被害者意識は嘘と呼ぶ。嘘をついたわけではない。覚えていないくらいあんたに腹が立っていたのだ。
そして女性は自分で救急車を呼び、自社のタレントを告訴したのだ。
今回の事件、かなり島田容疑者には不利である。弁護士に雪田樹理がついたことや、己の行動を省みない小知恵のついた被害者には翻弄されるだろう。
だが、少なくとも私は、今回の事件、島田容疑者が100%悪いのではない、ということだけは理解している。暴力を振るったことは許されない行為ではあるが、暴力を振るうまでに至った過程を詳細に説明してもらいたい。暴力を振るわれたことを全面に押し出し、自分に非があることは明らかなのにそれを棚に上げようとしている被害者女性の態度には、憤りを通り越して呆れている。被害者が、被害者意識を剥き出しにして真相を隠すようなことだけはやめてほしいものだ。
挨拶くらいちゃんとしようよ。40にもなってさ。

MTJ #7

「STAY CLOSE」高橋幸宏&Steve Jansen
JAPANとYMOは親交も深く、こういうコラボレーションが出て来るのは自然な形である。ビデオは、Steveの元に幼なじみの高橋幸宏が訪ねるという展開。落ち着いた色調で、時々ボケも挟みながら淡々と進んでいく。曲も、双方がヴォーカルをとりつつ、仲のいい雰囲気で流れる。その仲良し雰囲気がよく、個人的にも好きなクリップである。

「KAPPA」くじら
なんとも不思議なバンドである。昭和の(この頃はまだ昭和だったが)懐かしい雰囲気を漂わせつつ、それでいてラジカルな詞がありながら、牧歌的なサウンドと、つかみ所のない感じである。ビデオ中、メンバーがタートルネックを着ていて当時はダサイ感じだなと思っていたが、数年を経てタートルネックが復権する。先見の明なのか、たまたまなのか。

「潮時・ポーカーフェイス」バブルガムブラザーズ
いい曲である。どこかのマンションのエレベータをジャックした二人が、知らずに乗り込んでくる住人をいじりながらビデオは進んでいく。そのおちゃらけた内容はともかく、ミディアムテンポのいい曲である。トムさんは今でもテレビで見かけるが、相方のコーンさんは何をしているのだろうか。再結成の話もあったように思うが。

「蝋人形の館」聖飢魔II
大御所登場である。ヘビメタブームも一段落し、J-POPはバンドブームへと移るのだが、出てきたときからなんかおかしいなとは思っていた。見てくれは他のバンドに違わず威圧的で仰々しい感じだが、どこかコミカルな一面が垣間見えていた。で、あれである。ビデオでも、冒頭でその一面が窺える。しかしサウンドは本格派。妹が信者であったため、私もデーモン小暮の敬称は閣下である。NOKKOがゲスト出演しているのは周知の通り。

「Crime of Love」浜田麻里
浜田麻里の最高傑作ではないだろうかと思う。シャウトが響くラブバラードは他に例を見ないだろう。実にしっとりと激しく聴かせてくれる。ビデオは、「Blue Revolution」のついでに撮ったのか、色調が似ている。曲がよすぎてどんな映像を当てても薄れてしまうだろう。

バックナンバーズ・神よ

大阪のホテルで仕事をしていたときだった。キリスト教挙式場の裏手にあるビデオ室には、カメラオペレーターの私と二人の牧師がいた。若い牧師が、といっても私の父より少し若いくらいだが、カゼで調子が悪いと年配の牧師に話し掛けた。するとどうだろう、その年配の牧師は若い牧師に向かって手を翳して祈り始めたではないか。私はなぜか見て見ぬふりをしてヘッドフォンを掛けた。
結論から言えば、この世に神など存在しない。これは厳然たる事実である。神の教えと呼ばれるものも、人々が共存して生活していくために不可欠なモラルに過ぎない。それを人々に広めるため、時の文明は神という高次な存在を創り上げ、あたかもそこからの教えというようにそのモラルを広めていったのだ。
先の牧師のカゼが治ったとして、それは彼の身体の中でウイルスが退治されたことによるものであって、決して神が治したものではない。だが彼は、そうは思わないだろう。彼は神の存在を信じているからだ。
信仰は自由である。しかし、人間はいつまでいるはずのない神の存在を信じ続けるのだろうか。金儲けの新興宗教に騙され、何百何千万という金を取られた人もいる。私は同情などしない。神の存在を信じたお前がバカなのだと。
かくいう私が神に代わって感謝するのは、この地球上の生命である。それは食事のときであり、仕事であり、日々の生活に大きく関わっているこれらの生命達の存在を無視するわけにはいかない。現代は、それがあまりにもないがしろにされ過ぎている。平気で人を殺し、物を粗末にし、破壊する。
神を頼っている限り、人類に未来はない。誰からも教えられることなく、自分で考えて行動することこそが、未来に生き残る生命体に課せられた命題である。新しいミレニアムに、希望の光を信じて。
(みかつう99年12月号)

MTJ #6

「TuTu」ポータブルロック
アイドルをひきずっている(失礼)野宮真貴嬢が見られる貴重なクリップ。一応ドラマ仕立てで話は進むが、そこはミュージシャン、過度の期待は慎もう。スタジオの隅で片手間に撮ったようなあまり凝ってないビデオだが、リズムに合わせたカッティングが心地いい。

「Runaway Girl」ROGUE
どこのバンドでもヴォーカルは強烈な個性を持っているものである。それはルックスであり、ファッションであり、言動であったりするが、ROGUEの奥野敦士は、髪型(?)であった。別にモヒカンとかそういうのではない。普通のオールバックなのだが、サイドの髪が少し長い。で、この曲のサビの部分になると、彼は上半身を小刻みに前後に動かしてシャウトするのだが、そのときにサイドの髪がばらけて、顔に覆いかぶさるのである。それがなんともいえない不気味さというか、操り人形のような妙なエグみを見る者に与えてくれる。そんなことしか評価されないROGUEって・・・

「My Revolution」渡辺美里
小室哲哉、入魂の名作である。この一曲がある限り、私は全てを許す。渡辺美里の伸びやかなヴォーカルをバックに、都会に生きる若者のカットが延々と流れる。君たちの革命は、君たちの中にある。日本のスタンダードナンバーといってももはや過言ではないだろう。名曲である。

「Freeze Moon」尾崎豊
尾崎豊が、絵の具でどろどろになっている。それがだんだん取れてきて、最後にきれいな尾崎豊になる。単純に逆回しにしてあるだけだが、効果的で面白く仕上がっている。絵の具が全部取れたときには、ちょっとした爽快感があったりする。曲は重いが。

「6月の雨」白浜久
こっちはもっと重い曲である。後にARBに参加する白浜久だが、若者の妊娠中絶をテーマにした歌である。実際、発売直前になってクレームがあったそうだ。女子高生を主人公に、援助交際の原点みたいなストーリーが展開する。当時はまだ、高校生とセックスはタブーに等しかった。21世紀になって、それも当たり前になってしまった。いいやらわるいやら。

「Don't Stop Passengers」PINK
ビデオドラッグのような作品である。PINKは、大沢誉志幸のバックバンドという触れ込みで売り出された。バックバンドというと、どうも大沢誉志幸の下で修行したようなイメージがあるが、決してそうではない。たぶん安全地帯の影響があったのだろう。音の本質をさておいて、そういう上辺だけしか触れずに宣伝するのは、実に不愉快である。ギタリスト二人は既に他界されたそうだが、他のメンバーは現役である。