大阪のホテルで仕事をしていたときだった。キリスト教挙式場の裏手にあるビデオ室には、カメラオペレーターの私と二人の牧師がいた。若い牧師が、といっても私の父より少し若いくらいだが、カゼで調子が悪いと年配の牧師に話し掛けた。するとどうだろう、その年配の牧師は若い牧師に向かって手を翳して祈り始めたではないか。私はなぜか見て見ぬふりをしてヘッドフォンを掛けた。
結論から言えば、この世に神など存在しない。これは厳然たる事実である。神の教えと呼ばれるものも、人々が共存して生活していくために不可欠なモラルに過ぎない。それを人々に広めるため、時の文明は神という高次な存在を創り上げ、あたかもそこからの教えというようにそのモラルを広めていったのだ。
先の牧師のカゼが治ったとして、それは彼の身体の中でウイルスが退治されたことによるものであって、決して神が治したものではない。だが彼は、そうは思わないだろう。彼は神の存在を信じているからだ。
信仰は自由である。しかし、人間はいつまでいるはずのない神の存在を信じ続けるのだろうか。金儲けの新興宗教に騙され、何百何千万という金を取られた人もいる。私は同情などしない。神の存在を信じたお前がバカなのだと。
かくいう私が神に代わって感謝するのは、この地球上の生命である。それは食事のときであり、仕事であり、日々の生活に大きく関わっているこれらの生命達の存在を無視するわけにはいかない。現代は、それがあまりにもないがしろにされ過ぎている。平気で人を殺し、物を粗末にし、破壊する。
神を頼っている限り、人類に未来はない。誰からも教えられることなく、自分で考えて行動することこそが、未来に生き残る生命体に課せられた命題である。新しいミレニアムに、希望の光を信じて。
(みかつう99年12月号)