「いつも上天気」(It's always fair weather)というミュージカル映画をテレビでやっていた。当時、高校生だった私は、「今夜は最高」の映画パロディがわからないという理由で、名作と言われている映画を手当り次第に鑑賞していた。ジーン・ケリーという名前は知っていた。「雨に唄えば」などは、よくパロディにもなる作品である。殊に、ミュージカルともなればタモリ氏の風当たりもきつい。そんなせいか、どことなくミュージカル映画が気になっていた。
三人の帰還兵が、昔の約束で久しぶりに再会したものの、友情はすっかり壊れ、それぞれ自分の生活で手一杯だったが、やがてトラブルを解決していって友情を取り戻すというようなプロットだった。ミュージカル映画、ストーリーなどあって無きが如し。私は、劇中のジーン・ケリーのタップに圧倒された。
音楽に合わせて軽やかに、優雅に、力強く、たくましく。流れるような彼の動きに、私はたちまち虜になった。翌日から、レンタルビデオのラインナップはミュージカル一色となった。
「巴里のアメリカ人」「踊る大紐育」「私を野球につれてって」「ハロードーリー」「錨を上げて」などなど。まだ戦争が終わって間がないという時代に、こんな映画をつくっていたのだがら、日本が負けるわけである。
ハリウッドの評価はフレッド・アステアのほうが高いようだが、私はバレエの要素を軸としたジーン・ケリーのダンスが好きである。所作がきっちりとしていて、彼の方が銀幕に映えるのだ。
今の私を知っている人が、私がミュージカル映画好きと聞けば首を捻るかもしれない。しかし、高校の卒業文集に「歌って踊れるビジュアリストを目指す」とまで書いていたのだ。残念ながらそれは叶わなかったが、今でもジーン・ケリーは私の映画の師匠の一人である。
投稿者: みかつう
ヒロシ
ピンは難しい。ギャラは分けなくても済むが、板の上では一人しかいない。ネタを間違えても誰もフォローしてくれないし、誰も突っ込んではくれない。
何が難しいのか、それは間である。漫才は、呼吸やテンポさえあっていれば、ある程度喋りでごまかすことができる。だが一人ではそうはいかない。間の取り方を一つ間違えば、ネタふりやオチ運びが全て台無しになる。
その間の取り方がうまいと思う芸人は二人いる。マギー審司とヒロシだ。マギー審司の間は絶妙である。本来マジシャンに間などいらないが、あの間の取り方は関西芸人も見習うべきだ。
ヒロシは、いわゆる独白一行ネタ型のピン芸人である。実は最も危険な芸だ。過去に何人も沈んでいる。つぶやきシロー然り、ふかわりょう然り。
方言を使っているところはつぶやきシローのようだが、訛り具合はやや浅い。ネタは恐ろしく自虐的で愚痴に近いが、伏目がちで絶対にカメラや客席を見ず、しかも泣きそうな顔で終始演ずるので、客はネタに集中できる。加えて元ホストというルックスのよさが、余計に哀れみを誘う。
終始伏目がちという彼のスタイルが、絶妙な間を取らせた要因でもある。客と目線を合わせないということは、客は必然的に演者に集中する。彼が次に何を言うのか、客は期待する。ここでの次のネタへの間は重要である。どのネタで盛り上げるかという計算も必要だし、一つ一つのネタの受け具合で、間も変えていかなければならない。
喋りネタのピン芸人は厳しい。イラストや小物に逃げるピン芸人が跋扈する中で、久々に出てきた本格派ではないだろうか。
pas de chat 「ずうっと」
好きになる曲というのは、最初の10秒で決まる。イントロが終わってヴォーカルが入って何も感じなければ、その曲は私の耳から永遠に遠ざかる。pas de chatの場合、5秒で決着がついた。
藤原美穂のヴィヴィッドな、ともすればキーンとも形容し得る声を聴いて、私は知らずして記憶の底を手繰り始めた。この声、知っている。
彼女は昔、Chocolate Lipsというバンドを組んでいた。84年頃にアルバム(ネット上にデータなし)を発表、黒人男性2人に女性ヴォーカルという珍しい構成だったが、彼らのソウルフルなコーラス(曲はポップス系だったが)が妙にマッチしていた。
それからおよそ十年、藤原美穂というピースは、時を超えて再び私の感覚にはまったのである。
ファーストアルバム「pas de chat」は、残念ながら気に入った曲が少なく、セカンドアルバムは見送った。テレビドラマのテーマソングが無条件にヒットした時代、pas de chatがその時代に埋もれていくのを見るのが辛かったのは正直なところだ。
先日、メンバーの中野雅仁が児童買春容疑で逮捕された。平井堅やMISIAなど、着実にヒットメーカーの道を歩んでいただけに、残念である。
藤原美穂は、現在も精力的に活動中である。失礼を覚悟で言うなら、女性は姿形が老いても、声は老いることはない。あのキュートな歌声は、たぶん健在なのだろう。
そう、仔猫の軽やかな足音のように。
藤原美穂 pas de chat オフィシャル http://pasdecat.hp.infoseek.co.jp/
なんと、お店も経営されてらっしゃる http://tatata.net/siurana/
ALCA530 ALFA 19931021
青木さやか
久々に現れた、ヒール(悪役)の女性芸人である。女性芸人で、ピンで、ヒールというポジションは、過去にもなかなかいない。
テレビでは女子アナを標的にしているところをよく見かけるが、彼女もなまじ声がいいだけに、その様子は迫力がある。
今後、おそらくネタ見せよりもそういった女子アナいじめみたいなポジションでバラエティに使われるだろう。かなり強烈な毒を吐くので、インパクトもあっていいのではないだろうか。
実際のところ、私も彼女のテレビ的なポジションを忘れて腹が立つこともあるのだ。まあ、それだけ彼女のロールプレイが優れているということだが、私生活に影響が出るので心配である。ヤバイ連中にいじめられないようにね。
ファンサイト http://metti.velvet.jp/
ポータブルロック 「ダンス・ボランティア」
80年代も後半を過ぎると音作りはすっかり電子化して、テクノポップの音楽ジャンルとしての境界線はかなり曖昧になってきていた。ポータブルロックも、分類上はテクノ系らしいが、充分立派なガールポップである。
鈴木智文、中原信雄という80年代ニューウェーヴを支えた二人が、キュートなヴォーカル野宮真貴を擁して日本のミュージックシーンに挑んだ。「ダンス・ボランティア」は、ポータブルロックの2枚目のアルバムである。
全曲を通して、詞が秀逸である。ガールポップにありがちなべたべたした内容ではなく、この時期にしては珍しい女性上位で、微妙に揺れ動く細かな心情が描かれている。今にして思えば、これが野宮真貴のキャラクターの確立ではないだろうか。
曲も一段と洗練され、緻密な音作りは野宮の透明感あるヴォーカルと相まって、ポータブルロックの完成形ともなった。
折りしも世間はバンドブームが盛り上がっていく頃であったが、ガールポップにはあまり寛容ではなかった。商業ベースに乗れなかったバンドは次々と沈み、ポータブルロックもその憂き目にあってしまった。
がしかし、私にとっては意外な形で、もう一度野宮真貴の声を聴くことになる。それはあまりにも衝撃的であった。
32JC-235 JAPANRECORD 19870625
パール兄弟 「未来はパール」
「もんもんドラエティ」という番組に「お茶の子博士」というワンコーナーがあった。毎週3分程度のショートフィルムを流すものなのだが、これが恐ろしくシュールでリアルなサイコホラーだった。そのお茶の子博士というのが手塚真であり、彼がビデオクリップを手がけたのがパール兄弟だった。出会いはそんなところである。
80年代ニューウェーヴシーンの一翼を担っていたハルメンズのメンバー、サエキけんぞうが詞を、近田春夫とビブラトーンズのメンバーだった窪田晴男が曲を担当し、二人をメインにしてベースのバカボン鈴木(メトロファルス)、ドラムの松永俊弥が加わって、パール兄弟は86年に活動を開始した。パール兄弟とは、サエキと窪田の風貌が似ていたためにそう名付けられた。
サエキの詞は、既に鈴木さえ子のアルバムで出会っていた。強烈な印象があった。提供したミュージシャンの世界観を引っ張るような、ともすれば音楽さえ引きずり込むような妖しい魅力があったように思う。それが、パール兄弟では全面に押し出されてくる。加えて、窪田の鋭角なギター、バカボンの骨太なベース、松永の流麗なドラム。それでいて、生まれでるサウンドは決して荒ぶれてはいない。時には懐古的に、時には未来的に、たまにはエッチに。どこにでもあるようで、実はまったく掴み所がない、それがパール兄弟のサウンドだった。
これほど傾倒したミュージシャンは、後にも先にもサエキ氏のみである。しりあがり寿のマンガを読んだのも、ブロッサム・デアリ-のCDを買ったのも、全て氏の影響である。大学で映画をつくりながら、漠然と脚本や小説を書いて行こうかなと思っていた当時、パール兄弟のサウンドは、私をどんどん引き込んでいった。
だが、それだけでないことが、パール兄弟が解散してわかった。5枚目のアルバム「六本木島」発売直後のライヴで、窪田が勘当され(兄弟は解散できないらしい)、翌年にはバカボンも脱退した。3人になったパール兄弟が作り上げた6枚目のアルバム「大ピース」を聴いて、私は直感した。「あ、違う」と。
やはり、パール兄弟はサエキと窪田、二人合わせてパール兄弟である。窪田の抜けたその6枚目のアルバムは、見事にそれを証明していた。
昨年、勘当を解かれた窪田は、再びパール兄弟として、今度は二人だけの本当のパール兄弟としてのアルバムを発表した。実はまだ聴いていないが、いつまでも仲良くやってほしいものである。
サエキけんぞう オフィシャル http://www.saekingdom.com/
22MX1242 POLYDOR 19860625
鈴木さえ子 「Visinda og Leyndardomur」
その名は知らなくても、その音は誰もが知っている。聞き込んだ者なら、ちょっとしたフレーズでもすぐにわかる。鈴木さえ子の音楽活動の大半は、CMにあるといっても過言ではないだろう。
数少ない女性ドラマーとして、1979年松尾清憲率いるシネマに参加。83年にはソロアルバム「I wish it could be Christmas everyday」をリリース。ムーンライダースの鈴木慶一と結婚し、夫婦で音楽活動を共にした。「Visinda og Leyndardomur」は、2枚目のアルバムとなる。
(科学と神秘)と名付けられたそのアルバムは、前作のほのぼのファンタジー路線(それでも「フィラデルフィア」のビートは圧巻)から一転、ちょっとダークな、ともすれば怪奇とも思わせるサウンドが展開する。何か軽い毒のような、ちょうど童話に出てくる残酷な魔法使いのような、そんな感じである。
そのダークな怪奇感を演出しているのが、立花ハジメの視覚デザインであり、後に私が多大な影響を受けるサエキけんぞう(当時佐伯健三)の詞である。
ライブでは、ドラムとともにマリンバもよく演奏されていた。当時のライブ映像を見た私は、さえ子嬢が両手に二本ずつバチを持って演奏する姿に驚愕したものだ。ドラムもマリンバも叩くものに違いはないということか。
最後のソロアルバム「STUDIO ROMANTIC」が出たのは87年。90年に市川準監督「ノーライフキング」のサウンドトラック、出演を期に、鈴木さえ子は表舞台から姿を消した。しかし、その音は、いつまでも我々の耳に残っている。CMから流れるあの曲、あのフレーズ。
春を待つカエルのように、田植えを待つホウネンエビのように、私もいつまでも鈴木さえ子の音を待つことにしよう。
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