自民歴史的大勝

一つ断っておくが、私を含めて、自民党を支持したわけではない。小泉首相を支持したのだ。自民小泉政権での改革を期待しているわけで、小泉のいない自民党には用はない。それ以上の人間が出てくれば別だが。
しかし、この私が投票したくらいだから、全国でもかなりの無党派層が動いたようだ。私もびっくりしている。
選挙の焦点はあくまでも郵政民営化であって、焦点をぼかそうとした野党の失策が議席減につながった。どこかの党首が、民営化には賛成だがこの法案には反対だと言っていたが、傍から見れば純粋に反対している徒党と変わりないように見える。なんでも反対する共産党のほうがまだわかりやすい。
とかく政治に興味がないと言われている有権者だが、そうでもないことがわかっただろう。有権者のほうも、国民主権だということを、改めて思い知って欲しい。

宮城沖地震

死者が出なかったのは幸いだった。帰省ラッシュで人の出入りが多い真昼間の都市に震度5である。
それにしても、大規模地震の頻度は明らかに増加している。新潟中越地震は昨年の10月、福岡西方沖地震は今年の3月。そして、今回の地震だ。
不安を煽るわけではないが、阪神大震災クラスの大地震が再び日本を襲う日は、そう遠くないのかもしれない。
素人考えで申し訳ないが、こういう中規模地震が頻発することによってエネルギーが分散され、大地震がそれほど起こらなくなるという訳にはいかないのだろうか。
明日にも起こるともう二十年以上言われ続けている東海地震は未だにないし、地震のメカニズムも完全に解明されたわけではない。
いざというときに備えるのは当然としても、もう少し楽観的に考えてはだめなのだろうか。
確かに日本は地震が多いが、二千年近い歴史を持っている。国が滅ぶほどの地震には遭遇していない。それとも、もっと長いスパンでその壊滅的な地震はやってくるのだろうか。

戦後60年

戦争は本当にいけないことであると、真剣に考えたことがあるだろうか。この世から戦争がなくなると、本気で信じている人はいるのだろうか。
人は感情を表して生きている。喜び、怒り、哀しみ、楽しみ。人の集合体を国家とするなら、国家もまた感情を顕にしてこの世に存在している。
戦争をなくそうとするなら、人の怒りの感情をなくさない限り、それは叶わぬ願いなのである。
今は戦後であるが、戦前でもあると誰かが言った。戦後60年、100年、200年、ずっとそう言い続けていたいものである。

日航ジャンボ機墜落から20年

テレビで関連番組をやっていた。ながら見だが全部見てしまった。あれからもう20年も経ってしまったのか。
20年前の私といえば、いつものように母方の田舎へ帰省して、まったりとお盆休みを過ごしていた。夕食前、テレビを見ていたら(確か日曜日だった)速報が入った。その段階では行方不明だったと思う。やがて墜落が判明し、乗客乗員500人以上が亡くなったと思われたが、翌日に生存者が発見された。
まったりと過ごすはずだった休みに、妙な緊張が漂ったのを覚えている。
20年も経ったが、旅客事故のメカニズムは何ら変わっていない。整備のミス、運転のミス、管理のミス。大きな事故が起こるたびに、これを教訓にするという言葉を聞くが、本当に教訓にされているのだろうか。
20年だろうが21年だろうが、私には関係ない、といった事故現場の村長の言葉が耳に痛い。

郵政民営化法案否決

小泉首相が就任当初から郵政三事業民営化とともに言い続けていた言葉がある。自民党をぶっ潰す、だ。
法案は否決されたが、今度の選挙で恐らく自民党は潰れるだろう。つまり、小泉首相の思惑通りに、ある意味事は運んでいる。
私の認識として、郵政三事業を民営化することにより、景気に新しい風を吹き込むということを聞いた。反対派の意見としては、現在の郵便網の維持が困難になるということを聞いた。
しかし、反対派はいわゆる郵政族議員と呼ばれている人達であり、つまり郵政民営化により飯が食えなくなることで反対していると、私は認識している。
反対派は、一見すると国民への影響を危惧して反対しているように見えるが、実のところはそういうことである。
日本の政治は、今回の一件で後退を選択しようとしている。
改革を恐れ、既存秩序の崩壊を恐れ、己の懐が小さくなるのを恐れ、参議院はこの法案を否決した。
永田町のルールを無視し、傍若無人な采配を振りかざす小泉首相より、日本の政治を後退させようとしている連中に、私は憤りを覚える。
さあ、投票だ。汝の意思を示せ。

裁判員制度

たまにはマジメな話を。
とかく否定的、消極的な論議がされている裁判員制度だが、私はぜひやってみたい。もちろん、制度の確定までは充分な論議が必要だが、私は非常に興味がある。ギャラをくれとは言わんが、仕事を休んでまで行くのだから、アゴアシくらいは欲しい。
否定的な意見の中には、人を裁くことに畏れがあるというが、裁判官とて我々と同じ人間である。彼らにできることなら我々にもできるはずだ。
何より、こういった司法の現場に民間人が身を置くことによって、社会システムの一つである裁判制度というものが理解できるわけだし、犯罪者や被害者などいろんな人の立場も理解でき、思慮も深くなるのではないか。
そう、現代の人間は、あまりにも思慮が浅すぎるのである。
実はもう一つ、私は密かに考えていることがある。法律は万能ではない。実に無能なものだということを、法曹界に知らしめてやりたい。こんなに穴だらけの文言に則って、人は人を裁いているのだと。ま、とりあえず、殺人は無条件で死刑とw
どこがマジメな話やねん。

JR西日本に対するジャーナリズムのズレ

福知山線脱線事故に関して、JR西日本の企業体質が大きな問題になっている。事故当日や後日に宴会をしていたとして、マスコミは鬼の首を取ったように連日報道を続けている。
少し冷静に考えてほしい。
確かに、事故車両に乗り合わせていたJR職員が事故処理や救出活動をしなかったり、事故当日に宴会をしていたというのは問題である。だが、三次会までいったとか、何軒店を回ったとかいうのは、今回の事故に関する報道からすると、大きく逸脱していると言わざるを得ない。
特に朝日系メディアは、JR西日本を諸悪の根源のように(確かにそうかもしれないが)あれこれ穿り返し、肝心な事故原因の究明や、事の本質から大きくかけ離れた報道をし続けている。
なぜ運転手は伊丹駅でオーバーランを起こしたのか。なぜ制限速度を大きく上回る速度で走行しなければならなかったのか。一介のマスコミが検証するには難しい問題かもしれないが、手の届くところだけ大きく取り上げていては、君達の存在意義は無きに等しい。
物事を冷静に見つめなければならない報道記者が、記者会見場でJR職員に罵声を浴びせている。気持ちはわからないでもないが、君達の仕事は我々に真実を伝えることではなかったのか。
テレビを見たバカな連中が、あちこちで置き石を繰り返している。君達が面白おかしく報道した結果が、少なからず影響を与えているとは思わないか。
お前が悪いと言うのは簡単である。私でも言える。なぜこうなったのか、背景には何があるのか、我々の見えないところを見せてくれるのが、ジャーナリズムの本質ではなかったのか。
ニュースのワイドショー化はある程度寛容しているが、それは本質を見失っていないという前提である。それとも、私の考えている以上に、日本のジャーナリズムは俗世間に蝕まれてしまっているのか。そうだとしたら、実に残念な話である。