節分の鬼に泣く子供

節分だ。幼稚園に鬼がやってきて、子供たちが豆をまいている映像がテレビで流れた。
その鬼が妙にリアルで、子供たちがわんわん泣きながら豆をぶつけている。
番組に出ていたタレントから、かわいそうだという声が聞こえた。
確かにそうかもしれない。傍目に見れば、鬼で脅かしているようなものだ。
しかし、それこそが現代社会に必要なのではないだろうかと、最近特に思う。
近年、節分のような伝統的な行事に関心が薄れている。子供たちが精神的に不安定であったり、成長しないのは、情操教育の欠如が原因であると思うのだ。
かつてそれを担っていたのが、節分のような伝統的、宗教的な行事であり、そういう行事に触れることが少なくなったことで、子供たちがおかしくなっていったのではないだろうか。
そこには、地域との結びつきや、近所付き合いの有無などの複合要素も関わり、代替手段を模索せぬまま、今に至ってしまったことも要因の一つだろう。
大人たちの勝手な思惑で、いろんなものを失って育った子供たちが今、その大人たちに復讐している、ように思えてならない。

相撲、今度は八百長

思うのだが、相撲というのは非常に長い歴史がある。そして外部の人間がおいそれとは関与できない伝統がある。
この八百長というのも、その伝統や歴史の一つだと言ったら怒られるだろうが、たぶんそうなのだ。
スポーツという概念が相撲に取り入れられたのは、近代になってからだ。それ以前、相撲は興行だったに違いない。
スポーツの世界で八百長はご法度だが、興行となれば話は別だ。
観客を楽しませるために、小が大を倒すこともあったかもしれない。といって、小錦対舞の海が八百長だったとは思いたくないし、決してそうではないはずだ。
今回発覚した問題は、メールという物的証拠から発覚した。メールがあったからこそ発覚したわけで、今に始まったことではないと思う。
メールがなかった時代も、そういう行為が連綿と行われ続けていたのではないだろうか。
どこをどうすればこういった問題が解決できるのか。関係箇所に任せるのではなく、日本という国全体で考えていかなければならないようだ。
相撲は、日本の国技たるスポーツなのだから。

ぼーっとしてたら死ぬぞ

ジェットコースターから乗客が投げ出されて死亡するという事故があった。
乗客の安全バーが締まっておらず、係員の安全確認の不備が事故の原因らしい。
と一言で済ますのは簡単だ。
推測の域を出ないが、死亡した乗客は、自分の安全バーが締まらないことに対してどう思っていたのだろう。
もしかすると、締まってないけどまあいいか、くらいに思っていたのだろうか。私なら大声を張り上げて「締まってないぞアホンダラ」と叫ぶのだが。
事故の責任は間違いなく遊園地側にある。係員が安全確認を徹底しなかったために起こった事故だ。
しかし、乗客側の安全確認で防げた事故でもある。
人間はミスをする。他人も自分もミスをする。他人のミスは防ぎようがない。となれば、自分がミスをしないようにするか、他人のミスを自分の行動でカバーするしかない。
結局、最後のフェイルセーフは自分自身なのだ。
以前、横断歩道で信号が青になって渡ろうとすると、信号無視の車が突っ込んできた。二回あった。
もし私がぼーっと歩いていたら、間違いなく死んでいただろう。
日本人はもう少し、世の中が危険だということを認識したほうがいいかもしれない。自分の何気ない行為も、一つ間違えれば他人や自分を死に至らしめることだってある。
死んでからでは、こうやって文句も言えないのだから。

他人の失敗を責める前に

イオンでポイント5倍セールをやっているときに、近所のジャスコへ買い物に行った。
レジへカゴを持っていって、マイバッグを持っていかなかったのでレジ袋ちょうだいカードをカゴに入れて、いつもならレジのおねえさんの商品捌きを眺めているのだが、その日はぼーっとよそ見をして待っていた。
WAONで会計を済ませて、カゴを持っていこうとすると、レジ袋が入ってないことに気付いた。
レジ袋が入ってないと言うと、レジのおねえさんはそのレジ袋ちょうだいカードとガムを見落としていて、会計に計上されてなかったのだ。
やむなくレジ袋とガムを別会計で支払って、帰宅した。
帰ってレシートをよく見てみると、最初の会計で支払ったのが573円となっていた。後で払ったガムとレジ袋は、123円だった。
ポイント5倍の日である。WAONは、200円で1ポイントだ。
これをもし、一度の会計で支払っていれば、696円でポイントは15ポイントついたはずである。レジのおねえさんのうっかりで、5ポイントの損だ。
5ポイントはけっこう大きい。なんとかしてもらおうかと思ったが、私はレジを打ってもらっている間、ぼーっとよそ見をしていたのだ。
レジ袋がないことに気付いたのも、会計を済ませて持って行こうとしたときである。
もし私が、自分の買った物がちゃんとカウントされているかというのを確認していれば、レジのおねえさんのミスは防げたはずだ。
私に何の落ち度もない。レジのおねえさんが失敗したせいで、明らかに5ポイント損している。言いに行けば、たぶんなんとかなっただろう。
しかし、私には隙があった。他人を責めるときは、自分に一分の隙も許さないというのが、私の性分なのだ。
それにしても5ポイントは大きい。

京都のスーパー事情

ツイッターのTLで、京都市西京区を中心に店舗展開しているスーパーキタノが全店閉鎖したというのを見た。
私は東の方に住んでいるので縁はないが、ポテサラブログで京都のあちこちのスーパーなどに足しげく通っているので、広沢池店には一度だけ行ったことがある。
丸太町通にあるその店は、客もそれなりに入っていて、とても潰れそうな感じはなかった。
それに、少し東にある同じようなスーパーが最近になって閉店したので、少しは客足も増えたのではないかと思えるくらいだったのだが。
最近になって、こうした小さなスーパーの閉店が、実はじわじわ増えている。
河原町五条にあったFマートや、ストリートビューで見つけて訪れたら閉店していた花園公設市場、件のスーパーキタノは、中立売にあった店を先んじて閉店させていたりする。
その一方で、じわじわ勢力範囲を拡大させているのが、フレスコとローソンストア100だ。
24時間営業を最大の売りにしているフレスコは、同業他店の近くでも平気で出店する。北野白梅町店などは、イズミヤのすぐ南だ。考えられない。
生鮮食料品や惣菜などを24時間営業で売られれば、コンビニやスーパーはたまったもんじゃない。
しかしそのコンビニで勢力拡大中なのがローソンストア100だ。
まあ私も最近はほとんどの買い物がローソンストア100である。品揃えは豊富だし、100円でないのもたまにあるが、オリジナルブランドもたくさんあるので、買い物は事足りる。
ここ数年、右肩上りで店舗数拡大中だ。
都市生活の多様化に加えデフレと景気低迷で、中小スーパーや小売店はかなり厳しい状態にある。
スーパーがなくなると、お年寄りらの買い物が厳しくなるのだが、その隙間を実はローソンストアのような店が埋めたりするのだ。
変な話、京都中がフレスコとローソンストア100だらけになる可能性も、まんざらないわけではない。

それは自己顕示か、純粋な善意か

各地で相次いで出没している伊達直人は、子供たちに次々とランドセルを贈っているようだ。
これを単純な美談で済ませていいのだろうかと、あえて火中の栗を拾いたい。
私はボランティア活動には全く興味がない。
エレベータのボタンを押し続けたり、出入り口で鉢合わせた赤の他人のために扉を開けて待っていたりはするが、被災地などに赴いてどうのこうのというのには全く興味がない。
友人に食事を奢ったりすることはあるが、見ず知らずの他人に身銭を切ることは絶対にしない。
今回の伊達直人騒動に関して、もちろん純粋な善意で感化されて行動を起こした方もいるだろう。
だが、私には、テレビのニュースを指差して、あれはわしがやったんや、とほくそえむジジイの姿が浮かんで仕方ないのだ。
ボランティアは、人知れず行うものだと私は思っている。
もし、純粋な善意でランドセルを寄付したいのなら、伊達直人の名を使わずに、そっと玄関先に置いていけばいいだけだ。
なぜそこに伊達直人の名を書くのか。それは善意の奥に、少なからず自己顕示欲が潜んでいるからではないだろうか。
それに、支援や寄付にはいろんな手段があるはずだ。にも関わらず、各都道府県で雨後の筍のように次々と伊達直人が現れる。これではまるで模倣犯である。
ボランティアというのは、決して対価を求めず、全ての情操を内に秘めるものだと私は思う。その無秩序な善意が、時には他人に迷惑をかけることもあり得るのだ。
しかし今回の騒動、最初の人物の本名が伊達直人だったというオチを、私は密かに期待している。

2010年今年の漢字だ。
まあ、そんなとこだろう。近年稀にみる暑さだったし。
個人的には「帰」というところだ。今年唯一明るいニュースのはやぶさ帰還、チリの鉱山事故では奇跡の生還。
混迷している政治や世の中も、初心に帰ってもう一度初めからやり直したらどうだろう。
101211