小泉今日子 「BEAT-POP」

このアルバムは、スーパーセッションというサブタイトルがついているが、まさにその通りである。作詞作曲陣には、小室哲哉、久保田利伸、サンプラザ中野、サエキけんぞうらが名を連ね、スタジオミュージシャンには、山木秀夫、浅田崇、ホッピー神山、野村義男、戸田誠司、池畑潤二、下山淳、スティーブ衛藤、岡野ハジメ、松武秀樹、窪田晴男、布袋寅泰、パール兄弟など、絢爛豪華なメンバーである。
布袋のギター、浅田のベースで始まるトップチューンから、小室作曲、戸田編曲という夢のようなテクノナンバーへ、更にハイパーパワーチューンの「Heart of the Hills」へ続く。
「Heart of the Hills」は大好きなナンバーである。イントロだけ聴くと、完全にルースターズである。下山の泣きのギターに、池畑のパワードラムが炸裂する。PINKチームも負けてはいない。岡野の畳み込むようなベース、メロウなホッピー神山のキーボードに、弾けるスティーブ衛藤のパーカッション。もう身体はリズムを刻まずにはいられない。
ハードチューンのあとは、ちょっとナンパにひと休み。とはいえ、窪田のサイバーギターは唸りまくりである。サンプラザ作詞、久保田作曲のファンキーな4曲目のあとは、同じコンビでちょっとほっこりと。大御所芳野藤丸のギターはどこか懐かしげである。
アルバムチューンのシングル曲を挟んで、PINKコンビに布袋のギターが絡む7曲目。第4のYMOと呼ばれた松武シンセはここでも全開だ。
次は、小泉今日子とパール兄弟、である。私見を言えば、サエキの詞にキョンキョンはちょっと早かったかなという感じではあるが、どんどこバカボンベースにサイバー窪田のギターで大満足である。サエキ氏がコーラスで参加していればもっとよかったんだが。
ちょっとまったりしたあとは、ハイパワー池畑再びである。ヨッちゃんのグッバイシャウトが乙である。ラストはしっとり、ご本人作詞でたっぷりヴォーカルをお楽しみいただきたい(やっとかいな)。
小泉今日子 公式ウェブサイト http://www.koizumix.com/
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ガンアクション演出講座 #4 嘘も方便

往年の日活アクション映画などでは、撃っても撃っても弾の減らない銃がよく出てくる。銃に関して無知なはずはないだろうが、たぶんそんなことはどうでもよかったんだろう。
アメリカなどでは実銃を改造して劇中で使用するので、動作はもちろん実銃と同じだが、日本はまったくのスクラッチビルドになるため、多少の嘘は目を瞑らなければならない。オートマチックが撃ってもスライドしなかったり、薬莢が出なかったり、場合によってはモデルガンをそのまま使うこともあり、バレルのインサートが見えていた、なんてこともある。
かといって、海外で実銃を使って撮ったからリアルかと言えばそうでもない。ハンディキャップをカバーするのも演出の仕事である。カット割りやカメラワークでどうにでもなるのだ。
弾着は、ガンアクションでは難しい部類になる。こればっかりは、いくらハリウッドでも実際にやるわけにはいかない。今でこそCGでどうにでもなるが、主流はやはり火薬弾着であろう。
やったことがないのであまり詳しくはわからないが、つまりは火薬の爆発力で血糊の袋を吹き飛ばしてそれらしく見せるのである。実は、これは大嘘になる。それもそのはず、弾が入った場所が吹き飛ぶわけはない。吹き飛ぶとすれば、むしろ貫通した側である。更に、点火時の火花が見えてしまうことがある。お前はロボットか。
音響との兼ね合いも難しい。音がするのは銃から銃弾が発射されたときであって、人間に弾着したときには破裂音が出るはずはない。だからロボットちゃうっちゅうに。
こういう嘘がまかり通る背景には、銃についての無知がある。日本では当たり前の話だ。たぶん誰一人として人が銃で撃たれた瞬間などお目にはかかれないだろう。よく考えればおかしいことがわかるが、ぶっちゃけ、それっぽく見えれば細かいことはどうでもいいということになる。
意外な話だが、マイアミバイスにはほとんど弾着シーンがない。予算や手間の関係があるのかもしれないが、それでもあれくらいの名作品ができあがるのだ。
ついでにもう一つ、ガンダムの1話でザクがマシンガンを発射するシーンがある。そばで観ていたアムロの近くに薬莢ががらがらと落ちてくるわけだが、あれだけ科学が発達した未来なのだから、無薬莢弾の開発が進んでいてもいいようなものだ。特に戦争ともなれば、無用な物資の消費は避けねばならない。ではなぜ薬莢が出るのか。答えはそのほうがらしいからである。
嘘も方便。それが演出というものだ。

笑い飯

2002年のM-1で決勝に出てきたとき、はっきりいってノーマークだった。名前さえ知らなかった。大阪人は、見たことのない芸人については厳しい。評価はマイナスから始まるのだ。しかし、笑い飯は違った。それはすぐにプラスになり、及第点をあっさり超えて、あっという間に最高評価に到達した。
笑い飯を語るとき、まずそのスタイルに注目が集まる。漫才は基本的にボケとツッコミという役割分担をすることによってネタを運んでいくが、笑い飯は互いの立場を固定せず、ボケとツッコミを繰り返し続けるという特異なスタイルである。
オール阪神巨人ややすきよなども、たまにボケとツッコミが替わるときがあるが、それは一時的なネタの流れに過ぎず、笑い飯のように常に入れ替わるスタイルは、恐らく過去にも例がないと思う。しかし、笑い飯の漫才はスタイルから始まったわけではないだろう。あのネタありきで、あのスタイルになっただと思う。
ツカミこそ普通の漫才のように始まるが、場が温まった頃合いを計って交互にポジションを替え、ネタが進むごとにそれはスピードを増す。まさにツインエンジン漫才である。何気なくやっているようで、間の取り方やネタの運び方などには細心の注意が払われ、そして何より、ほんの僅かでも噛んだりすると、あのネタは終わりである。スピーディなネタには、確実な喋りが不可欠なのである。
学業成績は優秀な二人だが、見た目には一切それを感じさせない。だが、何も考えていないような風貌に騙されてはいけない。彼らの頭の中では、凄まじいスピードで笑いという名のターボチャージャーが唸りを上げているのだから。
今年のM-1は、ほぼ間違いない。

ガンアクション演出講座 #3 日本のガンアクション

日本において銃の所持は犯罪である。故に、銃を持っている者は、警察官などを除くとあとは全てヤクザということになる。となると、必然的に警察かヤクザの話にしか銃は出てこない。この範囲の狭さが、日本のガンアクションの狭さそのままになっている。
黎明期のVシネマをよく観ていたが、やはりそのことで苦しんでいたようだ。無国籍に逃げる作品もあったが、大して問題の解決にはならなかった。プロップガンは実によくできていて、実銃よりもリアルだったりするのに、日本のガンアクションはなぜあんなにチープなのだろうか。
以前友人が、黒髪のアジア人に銃は似合わないと言っていたが、香港映画はそれを見事に払拭したし、韓国映画も素晴らしいアクションを見せている。原因は何だろうと考えてみた。
アメリカは、その国の歴史が銃の歴史と言っても過言ではないだろう。銃とともにあの国は発展を遂げていった。よくも悪くもアメリカは、歴史の中に、生活の中に銃がある。
日本は、銃を人殺しの道具と位置づけて徹底的に避けてきた。当然、日本人の銃に対する印象も悪い。ガンアクションは、結果として誰かが死ぬということである。そのシーンに美しいもかっこいいもない。
だがアメリカは違う。ガンアクションの先には、自由があり、解放があった。銃は悪を倒し、人々を救ってきた。アメリカでは、銃は正義の象徴でもあった。
この違いが、日本でガンアクションが受け入れられない一因ではないだろうか。ただし、日本には殺陣がある。殺陣の素晴らしさは、世界にアピールするに余りあるだろう。
日本で自然にガンアクションを見せるのは無理かもしれない。だが理由はどうあれ、その魅力に取り憑かれた者がいる限り、ガンアクションの追求をして止むことはないだろう。
ちなみに、私が日本のガンアクションで好きなのは、特命刑事(大激闘から改名後の)のオープニングのラストカットである。登場人物が横一列に並んで、カメラに向かって銃を撃ちまくる(!!)。このシーンがやりたくて、大学時代にわざわざ人を集めて大阪の南港まで行ったが、機材トラブルで撮影中止になってしまった。実に残念であった。

緊急寄稿:エイベックス騒動

浜崎あゆみはどうでもいいし、エイベックスもどうでもいい。しかし、私は松浦氏を支持したい。芸術とビジネスは水と油である。そう簡単に相容れるものではない。その辺の軋轢が、今回の騒動になったのであろう。
どちらが欠けても、成功は生まれない。しかし、私には松浦氏の志が垣間見えた。ビジネスとしての成功を捨ててでも、アーティストを大事にしていこうという、一般人には到底理解できない論理である。志無き者は去るのみ。
とはいえ、私がエイベックスレーベルの音楽を聴くことは、たぶんこの先もないだろう。それとこれとは別の話である。

Leila White 「Primitive」

「世界の車窓から」という番組は、短いながらもなかなかクオリティの高いコンテンツである。その映像もさることながら、流れる音楽もまた絶妙なチョイスである。たまたまチャンネルを合わせていたある日、その音楽が耳を打った。画面に目をやると、隅の方にその曲とアーティスト名があったので、私は何気なくアーティスト名だけをメモに走り書きした。
しばらくして、CDショップの視聴機巡りをしていた私は、あるCDを聴いた。トップチューンに一耳惚れした私は、そのままそのCDを買った。待てよ、確かこの名前、とメモ帳のページをめくると、そこには”レイラ・ホワイト”とあったのだ。これがCDでなく女性であれば、間違いなく私は結婚しているだろう。
洋楽アーティストかと思いきや、実はサウンドスタッフはほとんどが日本人で、マネージメントも日本の事務所である。デビューの経緯や本人のプロフィールなどもあまり詳細には書かれてなく、別に秘密にしているわけでもないのだろうが、アーティストの素性より曲が前に出ているということは歓迎したい。
ミディアムでメロウなナンバーが中心で、ファンキーな曲もこなす。アダルトな声質だが、さほど太くはなく、ある意味それほど特徴的ではない声なのだが、どうしても聞き捨てならない魅力が隠れている。もはや感性の領域なので文章化することはできないが、私の中のピースにはまったことは確かである。
彼女のアルバムは都合4枚出ているが、全てトップチューンががっちり私を捉えている。他が悪いというわけではないが、CDショップの視聴機巡りという性格上、これは実にハマりやすい。前にも書いたが、好きか嫌いかはイントロの10秒で決まる。その辺りも含めて、なかなか小憎らしい選曲である。
レイラ・ホワイトは、BGMとしても最適である。ゲレンデやプールサイド、オープンカフェなんかにも似合うだろう。オーナーの方はぜひ検討していただきたい。きっと私以外にもがっちりはまるお客が現れることだろう。
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ガンアクション演出講座 #2 銃とキャラクター

リュック・ベッソンの「ニキータ」を私が評価しているのは、アンヌ・パリローにデザートイーグルを持たせたからである。
普通なら、女性が使う銃であれば小型の銃、口径も9ミリ以下のものだろう。映画のあのシチュエーションを考えても、せいぜい9ミリのダブルカラムである。しかし、ベッソンはあろうことか、彼女にデザートイーグルを持たせた。ストッピングパワーは45口径でも充分なのに、有り余る50口径をバカスカ撃ちまくる。私はあのシーンに度肝を抜かれた。
それは、ニキータという少女の強さの表れであった。これからスパイとして生きていくには、様々な苦難を乗り越えていかなければならない。加えて、過去の払拭という意味もあっただろう。あのシーンで彼女にデザートイーグルを持たせたのは、ベッソンの完璧な演出であった。以来私は、彼の映画のガンアクションに注目している。
ハリウッドが「ニキータ」をリメイクした「アサシン」という映画がある。この映画のニキータはそのシーンで何を使ったか。ウィルディである。しかも、確かエングレーブまで刻まれていたと思う。そのセンスのなさに私はあんぐりと口が開いた。この節操のなさ。ハリウッドもここまで地に墜ちるとは。
女性と大口径銃は、一見合わない感じがするが、演出によっては抜群の効果を得ることができる。女性の地位も力も、男に勝るとも劣らなくなった昨今、女刑事が500マグナムを撃つ日が来るのだろうか。来そうな、気がする。