ガンアクション演出講座 #3 日本のガンアクション

日本において銃の所持は犯罪である。故に、銃を持っている者は、警察官などを除くとあとは全てヤクザということになる。となると、必然的に警察かヤクザの話にしか銃は出てこない。この範囲の狭さが、日本のガンアクションの狭さそのままになっている。
黎明期のVシネマをよく観ていたが、やはりそのことで苦しんでいたようだ。無国籍に逃げる作品もあったが、大して問題の解決にはならなかった。プロップガンは実によくできていて、実銃よりもリアルだったりするのに、日本のガンアクションはなぜあんなにチープなのだろうか。
以前友人が、黒髪のアジア人に銃は似合わないと言っていたが、香港映画はそれを見事に払拭したし、韓国映画も素晴らしいアクションを見せている。原因は何だろうと考えてみた。
アメリカは、その国の歴史が銃の歴史と言っても過言ではないだろう。銃とともにあの国は発展を遂げていった。よくも悪くもアメリカは、歴史の中に、生活の中に銃がある。
日本は、銃を人殺しの道具と位置づけて徹底的に避けてきた。当然、日本人の銃に対する印象も悪い。ガンアクションは、結果として誰かが死ぬということである。そのシーンに美しいもかっこいいもない。
だがアメリカは違う。ガンアクションの先には、自由があり、解放があった。銃は悪を倒し、人々を救ってきた。アメリカでは、銃は正義の象徴でもあった。
この違いが、日本でガンアクションが受け入れられない一因ではないだろうか。ただし、日本には殺陣がある。殺陣の素晴らしさは、世界にアピールするに余りあるだろう。
日本で自然にガンアクションを見せるのは無理かもしれない。だが理由はどうあれ、その魅力に取り憑かれた者がいる限り、ガンアクションの追求をして止むことはないだろう。
ちなみに、私が日本のガンアクションで好きなのは、特命刑事(大激闘から改名後の)のオープニングのラストカットである。登場人物が横一列に並んで、カメラに向かって銃を撃ちまくる(!!)。このシーンがやりたくて、大学時代にわざわざ人を集めて大阪の南港まで行ったが、機材トラブルで撮影中止になってしまった。実に残念であった。

緊急寄稿:エイベックス騒動

浜崎あゆみはどうでもいいし、エイベックスもどうでもいい。しかし、私は松浦氏を支持したい。芸術とビジネスは水と油である。そう簡単に相容れるものではない。その辺の軋轢が、今回の騒動になったのであろう。
どちらが欠けても、成功は生まれない。しかし、私には松浦氏の志が垣間見えた。ビジネスとしての成功を捨ててでも、アーティストを大事にしていこうという、一般人には到底理解できない論理である。志無き者は去るのみ。
とはいえ、私がエイベックスレーベルの音楽を聴くことは、たぶんこの先もないだろう。それとこれとは別の話である。

Leila White 「Primitive」

「世界の車窓から」という番組は、短いながらもなかなかクオリティの高いコンテンツである。その映像もさることながら、流れる音楽もまた絶妙なチョイスである。たまたまチャンネルを合わせていたある日、その音楽が耳を打った。画面に目をやると、隅の方にその曲とアーティスト名があったので、私は何気なくアーティスト名だけをメモに走り書きした。
しばらくして、CDショップの視聴機巡りをしていた私は、あるCDを聴いた。トップチューンに一耳惚れした私は、そのままそのCDを買った。待てよ、確かこの名前、とメモ帳のページをめくると、そこには”レイラ・ホワイト”とあったのだ。これがCDでなく女性であれば、間違いなく私は結婚しているだろう。
洋楽アーティストかと思いきや、実はサウンドスタッフはほとんどが日本人で、マネージメントも日本の事務所である。デビューの経緯や本人のプロフィールなどもあまり詳細には書かれてなく、別に秘密にしているわけでもないのだろうが、アーティストの素性より曲が前に出ているということは歓迎したい。
ミディアムでメロウなナンバーが中心で、ファンキーな曲もこなす。アダルトな声質だが、さほど太くはなく、ある意味それほど特徴的ではない声なのだが、どうしても聞き捨てならない魅力が隠れている。もはや感性の領域なので文章化することはできないが、私の中のピースにはまったことは確かである。
彼女のアルバムは都合4枚出ているが、全てトップチューンががっちり私を捉えている。他が悪いというわけではないが、CDショップの視聴機巡りという性格上、これは実にハマりやすい。前にも書いたが、好きか嫌いかはイントロの10秒で決まる。その辺りも含めて、なかなか小憎らしい選曲である。
レイラ・ホワイトは、BGMとしても最適である。ゲレンデやプールサイド、オープンカフェなんかにも似合うだろう。オーナーの方はぜひ検討していただきたい。きっと私以外にもがっちりはまるお客が現れることだろう。
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ガンアクション演出講座 #2 銃とキャラクター

リュック・ベッソンの「ニキータ」を私が評価しているのは、アンヌ・パリローにデザートイーグルを持たせたからである。
普通なら、女性が使う銃であれば小型の銃、口径も9ミリ以下のものだろう。映画のあのシチュエーションを考えても、せいぜい9ミリのダブルカラムである。しかし、ベッソンはあろうことか、彼女にデザートイーグルを持たせた。ストッピングパワーは45口径でも充分なのに、有り余る50口径をバカスカ撃ちまくる。私はあのシーンに度肝を抜かれた。
それは、ニキータという少女の強さの表れであった。これからスパイとして生きていくには、様々な苦難を乗り越えていかなければならない。加えて、過去の払拭という意味もあっただろう。あのシーンで彼女にデザートイーグルを持たせたのは、ベッソンの完璧な演出であった。以来私は、彼の映画のガンアクションに注目している。
ハリウッドが「ニキータ」をリメイクした「アサシン」という映画がある。この映画のニキータはそのシーンで何を使ったか。ウィルディである。しかも、確かエングレーブまで刻まれていたと思う。そのセンスのなさに私はあんぐりと口が開いた。この節操のなさ。ハリウッドもここまで地に墜ちるとは。
女性と大口径銃は、一見合わない感じがするが、演出によっては抜群の効果を得ることができる。女性の地位も力も、男に勝るとも劣らなくなった昨今、女刑事が500マグナムを撃つ日が来るのだろうか。来そうな、気がする。

相馬裕子 「風の祭日」

風、緑、木漏れ日、せせらぎ、まさに自然派100%のサウンドである。私はこのファーストアルバムこそが、相馬裕子のアイデンティティであり、一番彼女という人物を表すサウンドだと思う。
それは、彼女が敬愛するアイリッシュミュージックに最も近い音作りがされていることもさることながら、余計なビジネスが入り込んでいないからであろう。CDは、所詮商品である。売り上げが悪ければ、ミュージシャンの好むと好まざるとに関わらず、そのサウンドは修正されていく。そういう意味で、一番ピュアな相馬裕子のサウンドがこのアルバムなのだ。
ギターを中心としたストリングス系のアコースティックなサウンドがアクセントとなり、柔らかなヴォーカルが引き立つアレンジになっている。ゆったりとしたリズムに身を任せ、草木の香りを嗅ぎながら、海風に吹かれれば、それこそまさに、”風の祭日”である。
彼女は、現在も精力的に活動中である。私より一つ下だが、ルックスはデビュー当時と全く変わっていない。
まだ、あの時の風は吹いているのだろうか。
相馬裕子 公式ウェブサイト http://www4.kiwi-us.com/~sohma/top.html
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ガンアクション演出講座 #1 リアルかスタイルか

いきなり自慢で申し訳ないが、私はGun誌の第1回ビデオコンテストにて、佳作入選をしている。銃にのめりこんでまだ間はなかったが、スポンジのように知識を吸収した結果だと思う。それでも、第一線で現場に出ている人達に比べれば屁以下である。今では私も素人同然、こんな私にできることは、こうやってブログでくっちゃべるだけだ。
映画や映像作品におけるガンアクションは、大別するとリアル派とスタイル派に分かれる。リアル派とは、その名の通りリアルさを追求し、シューティングスタイルや銃の選別、設定、効果音から特殊効果に至る全ての過程において、現実にあるかのようなアクションを追求するものである。
スタイル派とは(私が勝手に命名したのだが)、リアルさはある程度量るものの基本的には除外し、ガンアクションのかっこよさや派手さに注目して演出するものである。
リアル派の代表格としては、マイケル・マンが挙げられるだろう。まさかこの記事の閲覧者にマイアミバイスを知らない者はいるまい。劇中では毎回いろんな銃が登場し、しかも無意味に出てくるわけではなく、ちゃんと理由づけて登場させるところがガンマニア垂涎である。実際、ある回では本物のシューターが殺し屋として登場、ガバメントの早撃ちをやってのけた。演技の方はさほどではなかったが、なかなか不気味な役どころであった。
一方、スタイル派の代表格としては、香港ノワールが挙げられるだろう。そう、ツイ・ハークでありジョン・ウーであり、チョウ・ユンファである。「男たちの挽歌」のあのシーンは、今でも目を瞑ると瞼に焼き付いているくらいに鮮烈であった。
リアル派が見れば、あんな使い方するなよと一蹴しそうだが(私も実は同意見だったが)、あれほどかっこいいシーンはどこの映画にもなかった。やがてそのスタイルは全世界のアクション映画に取り入れられ、今ではスタンダードアクションの一つになっている。
どっちがかっこいいかというのは愚問である。演出というのは適材適所であり、役者やプロットによっても変えるものである。重要なのは、如何に監督の演出意図に沿うか、そして如何に観客を魅了できるか、この二点である。
一時期流行した銃を寝かせて撃つスタイル、あれは例えば右バリケードでオートを撃つ場合、排莢された薬莢がバリケードに跳ね返って危ないので銃を寝かせるわけだが、見た目がかっこいいので普通のスタンドシューティングでも使われることが多い。リアル派の意見としては、あれはシングルハンドでリコイルの制御に無理がかかるので、小口径かライトロードでないと命中精度はかなり劣る。しかし、やはり見た目はかっこいいのでよく見かける。
リアル派の演出としては出番のなさそうなアクションだが、ギャングやチンピラなどにこの撃たせ方をすると、使えないこともない。しかし、連射はやめたほうがいいだろう。プロップガンとはいえ、リコイルが不自然になるからだ。
リアルを追求して袋小路に入ったり、スタイルを追求してあさっての方向(日活アクションとか)に行ってしまってはだめだ。プロットやキャラクターを見極めて、自分なりのスタンスでやってみよう。

東京進出

大阪で売れてきた芸人がよく口にする言葉である。明石家さんま、ダウンタウン、ナインティナイン、まさに大活躍である。東京で一旗揚げようという、その意気込みはよくわかる。しかし、少し立ち止まって考えて欲しい。彼らが、東京へ行って失った物があることを。
東京へ進出した芸人は、確かにテレビによく出ている。そこで、彼らはどんな仕事をしているのだろうか。番組の司会である。そこに、芸の場はない。己の芸を生かすことはできるだろうが、ネタを見せて笑いを取っているのではない。
それは、芸人としてどうだろうか。
東京進出で金儲けはできるだろうが、己の芸が未熟であれば、ただのタレントに成り下がってしまうのだ。そうまでして、東京へ出る意味があるのだろうか。
東京は野球でいうメジャーに例えられる。大阪芸人は、いくら腕があっても東京ではルーキーである。しかし、東京にメジャーに例えるほどの笑いがあるだろうか。むしろ笑いに関して言えば、大阪のほうがメジャーである。東京はただ、情報発信の中心であり、人口が多いだけなのである。笑いを知らない、流行に流されやすい客の前で、己の芸が向上するはずがない。東京で芸を潰してきた芸人は、決して少なくないはずだ。
芸人の本分は、舞台に立ち、客の前でネタを披露して笑いをとる。多少シチュエーションは変わっても、ネタで笑いをとるのが芸人の本分ではないのだろうか。
ようやく最近、ゴングショー形式も含めてネタ見せができる番組が増えてきた。大阪を出て、東京へ行くのは構わない。が、どこへ出ようとも、ネタで勝負して欲しい。キャラクターやルックスではなく、ネタで勝負して欲しい。
特に、千原兄弟とハリガネロック。東京のクソみたいな芸人に負けてるぞ。何をしとんねん。もっと頑張らんかい。