JetpackコメントがreCAPTCHAを無効化していた

こないだからちょくちょくスパムコメントが書き込まれるようになった。
reCAPTCHAを入れてから全くなくなっていたのだが、効いてないのだろうかと見てみると、効いてない。
reCAPTCHA画面が全く表示されてないのだ。
コメントの表示部分を見てみると、どうもJetpackが怪しそうだ。
そこで、Jetpackコメントを無効化してみると、元に戻ったではないか。くそ、Jetpackめ。
Jetpackコメントを無効化するには、一旦「さらに詳しく」ボタンを押さないと「停止」が表示されないいやらしいトリックがあるので要注意だ。
しかしJetpackはログが便利なので外せないんだなあこれが。

関東に火球が落下したらしい


20日未明に、茨城県を中心とした関東広域で、巨大な火球と爆発音のようなものが観測されたらしい。
Youtubeを漁ってみるとこんな動画があった。
これはなかなか見事な火球だ。音が聞こえたならほぼ間違いなく隕石として地表に到達しているだろう。
ちょうど火球が青信号と重なる瞬間に爆発したようで、一瞬空が明るくなっているのがわかる。
残念ながら地上に落ちたという情報はなく、恐らく海上に落下したものと思われる。
これほどのものは見たことはないが、私も何回か火球は見たことがある。
流星の大きいものが火球で、さらに大きいと隕石となって地表に落下、さらに大きいとディープインパクトとなる。
小さくてよかったね。

誘惑の商店街

仕事場が商店街に近くなった。天神橋筋商店街だ。
貧乏でなければ外食を楽しむところだが、今はとりあえずコロッケの買い食いで我慢している。
小金持ちになったときのために、ちょっとうろうろしておいしそうな店を探す。
天神橋筋商店街は、長いわりに生鮮の店がない。衣料品や料理屋さんが多い。
生鮮は天満市場に集中しているからだろうか。
毎週市場で買い物できるのも嬉しい。朝の果物はしばらく充実することだろう。
また大阪うろうろするぜ。

冬は寂しい

私は季節の中で冬が一番好きだ。
冬の寒い日に外へ出たときの、あの周りの空気全体が攻撃してくるような感じがいい。
負けるか、と心の中で肩をいからせて歩くのだ。
しかし、虫や自然に強い興味を持った今年は、なんか違う。
暖かい頃は外を歩けばいろんな虫がいたのに、今は全く何もいない。
外で生きているのは人間と鳥くらいなのだ。
今までそんなことは思ったことはなかったが、こんなに冬が寂しかったとは。
大好きな冬を終わらせたくはないが、早く春になれとも思うのだ。
待ってろよ。
冬は寂しい

あれから18年

あの日の出来事を笑顔で話せる日は来るのだろうか。
いや、たぶんそんな日は永遠に来ないだろう。
12時間前まで働いていた仕事場は傾き、目に見える建物はその全てが破壊されていた。
遊びに行っていた友人宅から戻る際に、電車の車窓から見えたあの光景は忘れられない。
誰もがこんな震災は一生に一度だと思っていたが、それも甘い考えだった。
この国は地震とともにあるということを、改めて認識すべきである。
原発直下に断層があるとかないとか、そんなちんけなレベルで議論している場合ではない。
日本列島そのものが大きな断層の上にあるといっても過言ではないのだ。
二度あることは、と言いたくないが、必ず近い将来、もう一度大きな地震がやってくるだろう。
そのときを耐え抜くために、神戸や東北の教訓を活かさなければならない。

どうした787

F1は、1チーム2台体制で各レースに臨んでいる。
1台のマシンにトラブルがあると、もう1台にも同じトラブルが発生する可能性が非常に高い。
それは、2台のマシンに非常に精密な設計と整備がされているからだ。
もしかするとボーイング787もそんな憂き目にあっているのかもしれない。
まだ小さな事故で済んでいるが、大事故が起こってからでは遅い。
製造会社、航空会社共に早急な対応が必要だろう。
少し気がかりなのは、この787に日本製の部品が、今までのボーイング社製機体で一番多く使われていることだ。準日本製と言っても過言ではない。
もしかすると、かつて世界最高水準にあった日本の技術が、そうではなくなっているかもしれないのだ。
まだ原因は定かではないので、この問題が無事に収拾することを祈るばかりだ。

それでも体罰は必要だ

体罰とは、字の通り罰である。
その矛先には、罪があるはずである。
件のバスケ部の生徒は、果たしてどんな罪を犯したのだろうか。
どんな罪を犯して、何十発も毎日罰を受けていたのだろうか。
それはもはや体罰ではなく暴力であることは、誰の目にも明白である。
しかし、この世から体罰はなくならない。なくしてはならない。
いや、目を瞑ってはならないのだ。
暴力はいけない、戦争はいけない。世の中、あまりにも安易な論調が跋扈していることに、私は腹が立ってしょうがない。
否定さえしておけば、その先の議論をしなくて済むからだ。
なぜ暴力がいけないのか、なぜ戦争がいけないのか。その存在を認めた上で、なぜいけないかを議論しなければいけない。
確かに、矛先を誤った体罰という名の暴力は排除しなければならない。
しかし、罪を犯した生徒に対して、それを正すときには、体罰も一つの選択肢として必要だ。
建前だけを声高に叫んで事態が解決するはずがない。例え遠回りになろうとも、物事を直視しなければ何の解決にもならない。
教育現場も、家庭も、自治体も、本気になって取り組まない限り、悲劇は必ず繰り返される。
今までがそうだったように。