安田大サーカス

正直なところ、意外とよくもってるので驚いている。あれだけ完全に出オチの芸人も珍しい。だがプロフィールを調べてみると、今年のABCの審査員特別賞を獲っていた。もしかすると、もしかするかもしれない。
立ち位置下手から、元相撲取りだったというHIRO。上手、見た目はスキンヘッドの極悪人、喋れば超ソプラノ声のクロちゃん。中央、癖のありすぎるメンバーをまとめる大変さがしみじみ伝わる団長。やっぱり出オチ芸人である。
私は散々、芸人は舞台が本分と言ってきたが、彼らはテレビ向きの芸人だと言える。あまりにキャラクターが濃過ぎてイメージが固定され、舞台でネタを繰ってもそれほど広がらないだろう。あれだけ濃いと、ネタのマンネリはすぐに飽きられる。
舞台より自由に振る舞えるバラエティ番組のほうが安田大サーカスを活かせると思うが、いかんせん、それをやろうとなると、今度はメンバー個人の力量が問われる。
引き合いに出して申し訳ないが、ダチョウ倶楽部の上島が今一つ伸びないのも、彼のアドリブのなさが足を引っ張っている。テレビで活躍しようとすれば、シュアな芸を要求される舞台と違って、臨機応変な俊敏さが問われるのだ。
それには、場の空気を読む力や流れを見る力、他の芸人との絡み方など、舞台とは違ったスキルが必要となり、とても一筋縄ではいかないだろう。
安田大サーカスに可能性を引き出せる容量がどれだけあるかはわからないが、ここまで来れたのだからこれからも頑張ってほしい。

THE PLAN9

既に関西ではコアな人気を博しているプラン9。コントだけかと思ったら、どうも漫才も本腰を入れてやっているようだ。かつて、電車道という4人漫才がいたが、5人は恐らく史上初めてであろう。
プラン9は、メンバー全員がコンビ解散を経験している。おーい!久馬(シェイクダウン)、鈴木つかさ(シンドバッド)、浅越ゴエ(デモしかし)、灘儀武(スミス夫人)、ヤナギブソン(君と僕)。夢を捨てきれない芸人達の吹きだまり、と言ったら失礼だろうか。
コントでは既に定評を得ているプラン9だが、5人漫才となるといろいろと問題点や課題も出てくる。先日、「松紳」でネタを披露したとき、紳介師匠が開口一番「スピード感がない」と言った。松本さんは「5人でやる必要性を問う」と言った。さすがはお笑い界のゼウスとアポロンである。
プラン9は漫才をするとき、ツッコミ1人、ボケ4人という体制になる。センターにツッコミがいて、両サイドに2人ずつ、それぞれのボケにツッコむのだが、漫才といっても所詮は会話である。複数が同時に喋れるわけもなく、どうしても3人あぶれてしまう。そこがスピード感の喪失につながっているのである。
紳介師匠は、それをレースのピット作業になぞらえた。ピット作業は、マシンに触れることのできるクルーが3人(恐らく鈴鹿8耐の場合だろう)までと限られている。ピットクルーは7、8人いるが、実際の作業は3人しかできない。が、まるで全員が一斉に作業しているように見えるという。
つまり、喋れるのは2人だけだが、それを全員が喋っているように見えるスピード感が欲しい、ということなのだろう。
しかし、ここで私はふと思った。もし舞台上で5人がそのようなスピードで漫才をすると、たぶん客はついてこれないのではないかと。
5人は舞台上で横一列に並ぶ。すると客は、5人の動きに注意しなければならない。全員視界には入るだろうが、一人一人の動きを全て把握するのは無理だろう。そうすると、客の見ていないところでネタが進む可能性があり、これは非常に危険である。
ピット作業は、タイヤ交換を見ていて給油が見えなくても構わないが、漫才のネタはそうはいかない。右に気を取られている間に、左のフリが見えなくて真ん中のオチがわからなかった、では漫才として成立しない。
たぶん、メンバーもテンポの悪さは実感していると思うが、テンポを上げれば客にわかりにくくなる、客にわかるようにすればテンポが鈍る。そうまでして5人でやる必要があるかといえば、確かに疑問が残る。
現状では、ネタはよく練られていて非常に優れており、5人である必要性を感じさせるものとなっているが、絶対的な必要性があるかといえば、そうでもない。しかしそれはプラン9が5人だから5人漫才、という有無を言わさぬ存在価値を見いだせれば、それはそれで彼らの勝利である。
5人漫才という未知の領域に踏み込んだプラン9。やっぱりあかんわ、と得意のコントに逃げても私は寛容するが、できればこの未知の領域を制覇して、新たな金字塔を打ち立ててもらいたい。期待している。

サバンナ

最近全国ネットでネタを観る機会が増えてきた。私も好きな芸人の一つなので、この辺で触れておきたい。
八木真澄と高橋茂雄の二人は、立命館大学空手部の先輩後輩にあたる。吉本の若手では珍しく、NSC出身ではない。94年に結成し、97年にはABCの優秀新人賞を獲得、2丁目劇場終期に頭角を現した。
ツッコミの八木は、顔がトミーズ雅に非常によく似ていて、なかやまきんに君に負けず劣らず筋肉バカである。かなりの天然キャラで、その逸話は枚挙にいとまがない。「おぇ!」というツッコミをよくする。
ボケの高橋は、作家肌でシュールなボケが多い。ネタはきっちり組まれていて、シュールな中にも整然とした印象さえある。八木より後輩だが、今は立場的にも同等だろう。
芸人受けする芸人でもあり、非常に仲間が多い。NSCではないのだが、同時期に2丁目などで活躍していた芸人達とも交流が深い。
ネタはコント形式がほとんどで、立ち漫才はほとんどない。高橋のボケに八木がツッコむというのは当たり前だが、高橋のボケがとんでもない方向から飛んでくる。
言葉のボケというのは、正当なものに対して奇異なものをかぶせるわけで、普通は観る方もある程度ボケを予測できるものである。しかし高橋のボケは、予測もつかないあさっての方向からびゅんと飛んでくるわけで、こういうボケは的確なツッコミをしないとボケを活かせないまま終わってしまう。高橋を侍ジャイアンツの番場蛮と例えるなら、八木はキャッチャーの八幡だと言えるだろう。
東京で天下を獲れるような器はないかもしれないが、大阪芸人の底の厚さを存分に見せつけてもらいたいものだ。

南海キャンディーズ

先日の「第2回MBS新世代漫才アワード」では、惜しくも一回戦でプラン9の五人漫才に破れたが(プラン9恐るべし)、内容は決して悪くなかった。単純にあれはキャリアの差が出ただけであって、南海キャンディーズとしての形は完成に近づいており、このままいけばABCや上方漫才も充分射程圏内である。
南海キャンディーズは、足軽エンペラーの山里亮太(以下山ちゃん)と、西中サーキットの山崎静代(以下静ちゃん)が昨年結成した、今では珍しい男女漫才コンビである。
スローでラジカルな静ちゃんのボケは、相方ですら制御不能になるという不気味な一面を持つ。山ちゃんもイタリア人に傾倒しているせいで風貌が少しとんちんかんだが、甲高い大きな声ではっきりと突っ込むので、ネタにメリハリが出る。
二人とも見た目に特長があるので、当初は出オチを憂慮していたが、舞台を踏むに連れ知名度も上がり、その心配もなくなった。「MBS・・・」では、あの往年の名男女コンビ敏江玲児師匠を彷彿とさせる強烈などつきを見せてくれた。
探りながらでもいいから、もっと場数を踏んで大きくなってほしい。そして、男女漫才コンビの最高峰、鳳啓介・京唄子を超えるのだ。

長井秀和は天狗の鼻

先日の「平成教育委員会2004夏休みスペシャル」にて。
自分の解答について説明している長井秀和。だらだらと引っ張った挙句、たけしさんに「大したオチもないんだったらやめといたほうがいいよ」とたしなめられる。
再び、解答について今度は簡潔に答えた長井秀和。するとたけしさんに「視聴者は君がいつあれを言うか待っている」と言われる始末。
自分がなぜこの番組に呼ばれたのか、自分のポジションを全く理解していない。
君の代わりなどいくらでもいるし、君より面白い芸人もいくらでもいる。せっかくのチャンスをふいにした長井秀和に、芸人としての未来はない。気をつけろ、斬り!(あーやってもた

エンタの神様・存在意義のカラクリ

こんなことを言うと三枝師匠が怒ってくるかもしれないが、落語というのは確かに敷居が高い。観るほうもしっかり下準備をしないといけないような、そんな雰囲気がある。加えて、古典落語には古い言葉がたくさん出てくるので、その意味を掴むのも難しい。ということから、落語を観るときは、客にも相応のスキルが要求されると言えるだろう。わけもわからず米朝師匠や文枝師匠の落語を聞いても、もったいないだけである。
予てから古典落語の敷居の高さを憂えていた三枝師匠は、創作落語というジャンルを切り拓き、ネタを現代に合わせることによって、少しでも敷居を低くして、多くのお客さんに楽しんでもらおうとした。それでもやはり、客には最低限のスキルは要求される。落語の内容を聴き、自分の中で物語を再構成しながら、演者と世界を共有する。そうして初めて落語というものが楽しめるのだ。
世の中には、面白くないのに残っている芸人がいる。例えば、リットン調査団がいい例だ。それは、彼らが面白くないのではなく、観る側のスキルがついてきてないということなのだ。つまり、リットン調査団は客を置いてきぼりにして自分たちだけ先に行ってしまっているのである。芸人としては最悪だが、観客に迎合しない、我が道を行くその精神は尊敬に値する。
さて、エンタの神様である。
この間観てて思ったのだが、この番組は、スキル0(ゼロ)の視聴者のためのお笑い番組だなと。つまり、お笑いに関して何の知識もなく、人から伝え聞いたことを自分の中で再構成できない、演者の言うことをテロップの助けを借りてとりあえず右から左へと脳内に通して、面白ければ笑う。そういった視聴者のために存在する番組だとつくづく思った。
観る側に何の苦労もさせない番組というのは、一見すると素晴らしいように思えるが、実は何の役にも立たない。右から左へただ流れていくだけで後には何も残らない。そして残念ながら、この番組で視聴者のスキルは上がらない。
しかし、視聴率があるということは、こういう番組を必要としている視聴者がいるということなので、エンタの神様という番組の存在意義は認めざるを得ない。
高視聴率番組は、どんなに内容が酷かろうと、出演者が使い捨てにされようと、数字を取る限り永遠に続く。エンタの神様を終わらせる方法はただ一つ、視聴者のスキルを上げることである。そうすれば、自分が観ていた番組が、実につまらない、お笑いにとって何の役にも立たない番組であったことに気づくはずだ。
もし、エンタの神様を観て、お笑いに興味を持った方々は、ぜひエンタの神様をステップにして、他の番組でスキルを上げて欲しい。世の中、もっともっと面白いお笑いはヤマほどある。そして最終的に、古典落語を聴いてみて欲しい。そこには、日本の文化としてのハイレベルなお笑いが待っている。

エンタの神様・検証8月28日放送分

特別編成ということだが、全部のネタにテロップが入っているわけではなかった。これはどうなんだろうか。まさか、私が放送を観るから付けなかったのか。
改めて、テロップの問題について言及する。
今回、私は初めてお笑い芸人のテロップ付きネタを観たわけだが、ちゃんと日本語で聞こえているにもかかわらず、下に同じ内容のテロップを流すという、非常にばかげた手間のかかることをやっている。
私の場合、それが例えアラビア語であってもテロップや字幕というものを反射的に見てしまうので、非常に観づらい。正直、いつもここからの時はほとんどネタが頭に入っていなかった。
それに、これが最大の理由だが、テロップに目をやっている間、芸人の所作が見えない。テロップに気をとられ、芸人の動きや表情がわからないのだ。これは致命的な欠陥である。
どこかの書き込みにあったが、テロップがなければ面白さ半減、とあった。考えてみて欲しい。芸人は、テレビだけで仕事をしているのではない。舞台や営業での仕事で切磋琢磨して、ようやくテレビに出られるのである。舞台ではテロップは流れない。面白さが半減したその芸人はどうやって飯を食っていくのだろう。「テレビのほうが面白い」とは、芸人にとっては死を意味している。そこで着物着てギター弾いている人は、自分の置かれている立場をもう一度よく考えてみてほしい。
今回、テロップの出た芸人と出てない芸人が真っ二つに分かれた。私は、全てのネタに頻度こそあれ、テロップを出すものだと思っていたが、そこは少し安心した。CMぶった切りも、もうしてないようだ。もしやっていたら、ここでその極悪スポンサーを紹介するつもりだったが。
やはり制作サイドはフォローの意味でテロップを入れているような気がした。コンビは入れないのか思ったら、青木さやかはなかったし、吉本芸人は入れないのかと思ったら、陣内には思いっきり入った。陣内以外は、分別があったように思う。とはいえ、ネタにテロップを入れるというのはネタ潰し以外の何物でもない。
面白くない芸人もいるだろうが、芸人は客の笑いで育ち、客は芸人のネタで育つ。「エンタの神様」はそのプロセスを全く無視している。これがお笑い番組と言えるだろうか。
結論として、「エンタの神様」は、わかってないスタッフがわかってない視聴者にお笑いを見せる番組、ということである。わかってないもん同士、仲良くやってくれ。また芸人を冒涜するようなことがあれば、こちらはいつでも糾弾する用意がある。ネットの恐ろしさは、よくわかっているはずだ。
五味さん、あんたの親切は大きなお世話なんだよ。