私が初めて自分の小遣いで買ったLPレコードである。これで家庭の環境が整っていれば、私は間違いなくミュージシャンの道を歩んでいただろうが、やはりそこはただの小学生、まんまとガンダムへ行ってしまった。
それはさておき、今更何の解説の必要もないアルバムである。ジャケットの裏で、半笑いでマネキンの股間を掴んでいる細野晴臣、当時からスカした感じのあった教授こと坂本龍一、そういえばどことなく松田優作(というより工藤ちゃん)に似ている高橋幸宏。オーケストラなのに3人?という疑問は、ガキの私なら当然だろう(余談だが、この雀卓に写っているコカコーラは商標だからまずいのでは?)。
ドイツのクラフトワークに端を発したテクノポップが、日本において市民権を得たのはYMOの功績である。次のムーブメントを探していた音楽業界は、ここぞとばかりに飛びつき、テクノは一気に蔓延していった。インベーダーゲームやパソコンの登場など、インフラが揃っていたことも相まって、テクノは80年代の巨大なムーブメントとなった。
当然、これを受けて多くのテクノポップバンドが出現した。プラスチックス、ヒカシュー、ジューシィフルーツ、一風堂など、YMOは彼らの血となり肉となり、その遺伝子を後世に伝えていった。
四半世紀が過ぎてなお、YMOはその痕跡を日本の音楽界に残している。これほど多大な影響を残したミュージシャンは、この先もおそらく出てこないだろう。
バブルによって、音楽業界は完全に商業主義に乗っ取られてしまった。時代の流行と共に、音楽も激しく時代を流れていく。確かに音楽は流れるものだが、いい音楽は耳に残るはずである。その耳を養う努力を、聴き手である我々は、決して怠ってはならないのだ。
ALR-6022 ALFARECORDS 1979
カテゴリー: 音楽
Romi 「Transparence」
本名を成田路実という。東レの水着キャンペーンガールであり、グラビア系のタレントとして活動し、映画にも出演している。同じ人物だとわかったのは、かなり後になってからだった。
「silver moonlight」のビデオクリップを初めて観たときから、強烈に気に入ってしまった。ルックスもそうだが、切ない声がいい。サウンドイメージとしてはダークな方だが、Romiのそれはネガティブではない、上向きのベクトルを感じさせるものである。
仕事柄、彼女は神戸に縁があるようで、地元のFM局でパーソナリティを務めるなど、私にとっては身近な存在であった。街で偶然会わないかなと、用もないのに元町あたりをうろうろしたものだ。
CDに入っていたハガキを送ったところ、事務所からDMや会報が来るようになった。たまに来るポストカード状のDMは、裏面がRomi嬢のポートレートだった。それらは季節の節目毎に届いていたが、やがて来なくなり、Romiの歌手としての活動も止まってしまった。
好きだった女の子が知らないうちに引っ越していったような、そんな心境だった。彼女の笑顔が見られないのは残念だが、その歌はいつでも聴ける。最近の活動がないかと探っていたら、松尾貴史氏のウェブサイトに名前があった。いつの日か、また彼女に会える日が来るのだろうか。
APCA-160 APOLLON 19960521
pizzicato five 「Bellissima!」
オリジナルラヴの田島貴男をヴォーカルに迎え、第2期ピチカートファイヴがスタートしたが、私は内心不安でいっぱいだった。正常な男の子としては、ピチカートファイヴは佐々木麻美子であるべきであった。男臭いピチカートファイヴなんぞ御免である。
前作から一転、汗臭くないソウルという、まるでマットビアンコみたいな謳い文句のアルバムだったが、そのサウンドはどこか探り探りな印象を受けた。「カップルズ」で展開されたソフトなメロディーに、田島のヴォーカルがそのまま乗る。あれ、違うぞ、と感じたのは、私だけではないはずだ。
しかし、その懸念は次のアルバムで払拭される。「女王陛下のピチカートファイヴ」は、バート・バカラックに傾倒している小西が作り上げた、映画のない映画音楽だった。
田島のヴォーカルにどっしり重きを置いていた「ベリッシマ」に比べ、中心は小西&高浪のサウンドへ移った。加えて、様々なゲストミュージシャンの参加で、バラエティ豊かなアルバムになった。これは次の「月面軟着陸」へとつながり、ピチカートファイヴのサウンドが確立され始めた。
しかし、ここで田島貴男がオリジナルラヴの活動に専念するということで脱退。第2期ピチカートファイヴの終焉である。
次のヴォーカルは誰か。私は、戸川京子あたりが有力だと思っていた。彼女自身、ピチカートファイヴの大ファンであり、「月面軟着陸」にもゲストヴォーカルとして参加、また彼女のアルバム「O'can」では、全詞を小西氏が書いている。
誰しも待ち望んでいた次のヴォーカル、それは、意外にも元ポータブルロック、野宮真貴だった。ピチカートファイヴ、怒涛の第3期の幕が開ける・・・。
32DH5126 CBS/SONY 19880921
pas de chat 「ずうっと」
好きになる曲というのは、最初の10秒で決まる。イントロが終わってヴォーカルが入って何も感じなければ、その曲は私の耳から永遠に遠ざかる。pas de chatの場合、5秒で決着がついた。
藤原美穂のヴィヴィッドな、ともすればキーンとも形容し得る声を聴いて、私は知らずして記憶の底を手繰り始めた。この声、知っている。
彼女は昔、Chocolate Lipsというバンドを組んでいた。84年頃にアルバム(ネット上にデータなし)を発表、黒人男性2人に女性ヴォーカルという珍しい構成だったが、彼らのソウルフルなコーラス(曲はポップス系だったが)が妙にマッチしていた。
それからおよそ十年、藤原美穂というピースは、時を超えて再び私の感覚にはまったのである。
ファーストアルバム「pas de chat」は、残念ながら気に入った曲が少なく、セカンドアルバムは見送った。テレビドラマのテーマソングが無条件にヒットした時代、pas de chatがその時代に埋もれていくのを見るのが辛かったのは正直なところだ。
先日、メンバーの中野雅仁が児童買春容疑で逮捕された。平井堅やMISIAなど、着実にヒットメーカーの道を歩んでいただけに、残念である。
藤原美穂は、現在も精力的に活動中である。失礼を覚悟で言うなら、女性は姿形が老いても、声は老いることはない。あのキュートな歌声は、たぶん健在なのだろう。
そう、仔猫の軽やかな足音のように。
藤原美穂 pas de chat オフィシャル http://pasdecat.hp.infoseek.co.jp/
なんと、お店も経営されてらっしゃる http://tatata.net/siurana/
ALCA530 ALFA 19931021
ポータブルロック 「ダンス・ボランティア」
80年代も後半を過ぎると音作りはすっかり電子化して、テクノポップの音楽ジャンルとしての境界線はかなり曖昧になってきていた。ポータブルロックも、分類上はテクノ系らしいが、充分立派なガールポップである。
鈴木智文、中原信雄という80年代ニューウェーヴを支えた二人が、キュートなヴォーカル野宮真貴を擁して日本のミュージックシーンに挑んだ。「ダンス・ボランティア」は、ポータブルロックの2枚目のアルバムである。
全曲を通して、詞が秀逸である。ガールポップにありがちなべたべたした内容ではなく、この時期にしては珍しい女性上位で、微妙に揺れ動く細かな心情が描かれている。今にして思えば、これが野宮真貴のキャラクターの確立ではないだろうか。
曲も一段と洗練され、緻密な音作りは野宮の透明感あるヴォーカルと相まって、ポータブルロックの完成形ともなった。
折りしも世間はバンドブームが盛り上がっていく頃であったが、ガールポップにはあまり寛容ではなかった。商業ベースに乗れなかったバンドは次々と沈み、ポータブルロックもその憂き目にあってしまった。
がしかし、私にとっては意外な形で、もう一度野宮真貴の声を聴くことになる。それはあまりにも衝撃的であった。
32JC-235 JAPANRECORD 19870625
パール兄弟 「未来はパール」
「もんもんドラエティ」という番組に「お茶の子博士」というワンコーナーがあった。毎週3分程度のショートフィルムを流すものなのだが、これが恐ろしくシュールでリアルなサイコホラーだった。そのお茶の子博士というのが手塚真であり、彼がビデオクリップを手がけたのがパール兄弟だった。出会いはそんなところである。
80年代ニューウェーヴシーンの一翼を担っていたハルメンズのメンバー、サエキけんぞうが詞を、近田春夫とビブラトーンズのメンバーだった窪田晴男が曲を担当し、二人をメインにしてベースのバカボン鈴木(メトロファルス)、ドラムの松永俊弥が加わって、パール兄弟は86年に活動を開始した。パール兄弟とは、サエキと窪田の風貌が似ていたためにそう名付けられた。
サエキの詞は、既に鈴木さえ子のアルバムで出会っていた。強烈な印象があった。提供したミュージシャンの世界観を引っ張るような、ともすれば音楽さえ引きずり込むような妖しい魅力があったように思う。それが、パール兄弟では全面に押し出されてくる。加えて、窪田の鋭角なギター、バカボンの骨太なベース、松永の流麗なドラム。それでいて、生まれでるサウンドは決して荒ぶれてはいない。時には懐古的に、時には未来的に、たまにはエッチに。どこにでもあるようで、実はまったく掴み所がない、それがパール兄弟のサウンドだった。
これほど傾倒したミュージシャンは、後にも先にもサエキ氏のみである。しりあがり寿のマンガを読んだのも、ブロッサム・デアリ-のCDを買ったのも、全て氏の影響である。大学で映画をつくりながら、漠然と脚本や小説を書いて行こうかなと思っていた当時、パール兄弟のサウンドは、私をどんどん引き込んでいった。
だが、それだけでないことが、パール兄弟が解散してわかった。5枚目のアルバム「六本木島」発売直後のライヴで、窪田が勘当され(兄弟は解散できないらしい)、翌年にはバカボンも脱退した。3人になったパール兄弟が作り上げた6枚目のアルバム「大ピース」を聴いて、私は直感した。「あ、違う」と。
やはり、パール兄弟はサエキと窪田、二人合わせてパール兄弟である。窪田の抜けたその6枚目のアルバムは、見事にそれを証明していた。
昨年、勘当を解かれた窪田は、再びパール兄弟として、今度は二人だけの本当のパール兄弟としてのアルバムを発表した。実はまだ聴いていないが、いつまでも仲良くやってほしいものである。
サエキけんぞう オフィシャル http://www.saekingdom.com/
22MX1242 POLYDOR 19860625
鈴木さえ子 「Visinda og Leyndardomur」
その名は知らなくても、その音は誰もが知っている。聞き込んだ者なら、ちょっとしたフレーズでもすぐにわかる。鈴木さえ子の音楽活動の大半は、CMにあるといっても過言ではないだろう。
数少ない女性ドラマーとして、1979年松尾清憲率いるシネマに参加。83年にはソロアルバム「I wish it could be Christmas everyday」をリリース。ムーンライダースの鈴木慶一と結婚し、夫婦で音楽活動を共にした。「Visinda og Leyndardomur」は、2枚目のアルバムとなる。
(科学と神秘)と名付けられたそのアルバムは、前作のほのぼのファンタジー路線(それでも「フィラデルフィア」のビートは圧巻)から一転、ちょっとダークな、ともすれば怪奇とも思わせるサウンドが展開する。何か軽い毒のような、ちょうど童話に出てくる残酷な魔法使いのような、そんな感じである。
そのダークな怪奇感を演出しているのが、立花ハジメの視覚デザインであり、後に私が多大な影響を受けるサエキけんぞう(当時佐伯健三)の詞である。
ライブでは、ドラムとともにマリンバもよく演奏されていた。当時のライブ映像を見た私は、さえ子嬢が両手に二本ずつバチを持って演奏する姿に驚愕したものだ。ドラムもマリンバも叩くものに違いはないということか。
最後のソロアルバム「STUDIO ROMANTIC」が出たのは87年。90年に市川準監督「ノーライフキング」のサウンドトラック、出演を期に、鈴木さえ子は表舞台から姿を消した。しかし、その音は、いつまでも我々の耳に残っている。CMから流れるあの曲、あのフレーズ。
春を待つカエルのように、田植えを待つホウネンエビのように、私もいつまでも鈴木さえ子の音を待つことにしよう。
RAL-8815 DEARHEART/RVC 19840621