芸能マネージャーは大変だ

どんな仕事も大変だが、芸能マネージャーも大変な仕事である。
タレントのスケジュール管理はもとより、タレントがスムーズに仕事ができるようにあらゆる点に気を配らなければならない。プロデューサーに頭を下げ、ディレクターに頭を下げ、フロアで頭を下げ、サブで頭を下げ、タレントを番組で使ってもらうように挨拶は欠かせない。
時には、タレントと事務所の間に立って、タレントの愚痴をなだめることもある。タレントのメンタルケアも任されているのだ。
タレントがテレビ局やスタジオで仕事をしているときは、カメラの後ろで見ながら、ときには目配せで合図したり、いろいろとフォローしなければならない。
どんなに仕事が辛くても、本番中にタレントほったらかしでロビーにコーヒーを飲みにいって、初めて顔を合わせた同じ事務所の先輩タレントに名刺も出さず礼儀もわきまえず馴れ馴れしく話しかけて、挙句の果てにその先輩タレントをキレさせてぼこぼこに殴られて、警察へ被害届出してその先輩タレントを告訴して事務所に大損害を与えた上に、まだその事務所で働こうという自己中心的な考えを押し切るようなことは、あってはならない。
え、あったの?あらま。

バックナンバーズ・神よ

大阪のホテルで仕事をしていたときだった。キリスト教挙式場の裏手にあるビデオ室には、カメラオペレーターの私と二人の牧師がいた。若い牧師が、といっても私の父より少し若いくらいだが、カゼで調子が悪いと年配の牧師に話し掛けた。するとどうだろう、その年配の牧師は若い牧師に向かって手を翳して祈り始めたではないか。私はなぜか見て見ぬふりをしてヘッドフォンを掛けた。
結論から言えば、この世に神など存在しない。これは厳然たる事実である。神の教えと呼ばれるものも、人々が共存して生活していくために不可欠なモラルに過ぎない。それを人々に広めるため、時の文明は神という高次な存在を創り上げ、あたかもそこからの教えというようにそのモラルを広めていったのだ。
先の牧師のカゼが治ったとして、それは彼の身体の中でウイルスが退治されたことによるものであって、決して神が治したものではない。だが彼は、そうは思わないだろう。彼は神の存在を信じているからだ。
信仰は自由である。しかし、人間はいつまでいるはずのない神の存在を信じ続けるのだろうか。金儲けの新興宗教に騙され、何百何千万という金を取られた人もいる。私は同情などしない。神の存在を信じたお前がバカなのだと。
かくいう私が神に代わって感謝するのは、この地球上の生命である。それは食事のときであり、仕事であり、日々の生活に大きく関わっているこれらの生命達の存在を無視するわけにはいかない。現代は、それがあまりにもないがしろにされ過ぎている。平気で人を殺し、物を粗末にし、破壊する。
神を頼っている限り、人類に未来はない。誰からも教えられることなく、自分で考えて行動することこそが、未来に生き残る生命体に課せられた命題である。新しいミレニアムに、希望の光を信じて。
(みかつう99年12月号)

迷い道くねくね

週末は神戸で仕事をしている。時間が不規則なので、午前中で終わるときもあれば、昼休みが4時間、なんて日もある。そんな日は、神戸の見知らぬ道をてくてく歩く。それは、陽光眩しいある春の日の出来事であった。
行き先を新開地としたのに別段理由はなかったが、神戸で仕事をするようになってから、ハーバーランドより西は行ったことがなかった。同僚に近道を教えてもらい、一路新開地へと向かった。
十分も歩かぬうちに、大阪の新世界のような佇まいを見せる街に辿り着いた。見知らぬ街を知るには商店街を歩くべし。私はアーケード沿いに歩いた。寿司飯の酸い匂いが漂う。この辺りも震災でやられたのであろう、真新しい構えの店や空き地が目立つ。
アーケードを抜けると、公園に出た。この湊川公園は、一部が大きな通りをまたいで高架状になっており、非常に興味深いロケーションである。公園を横切って、何気なく北へ進むと、またアーケードが見えた。東山商店街は道幅が狭く、両並びの店がひしめきあっていた。
明石直送のエビは白い発泡スチロールケースの中で跳ね、シャコは篭に山盛りにされている。カニや旬の魚も並び、大阪や京都の商店街とは違って、ここが海に近いことを知らしめてくれる。一パック150円のいなり寿司に目を奪われながら、東山商店街を抜けると、ものものしい工事フェンスが目に飛び込んだ。
そう、ここがあの悪名高き新湊川である。相次ぐ二度の氾濫で付近住民に甚大な被害をもたらしたあの川である。ほとんど流れのない河面を覗きこんだが、道路までは4、5mはあるだろうか、かなり深い。これが溢れるのだから相当な流量である。六甲の山肌が次第に迫り、私は進路を変えた。
事前に何も調べていないのだから、漠然と方角がわかる程度で地理的情報は全く持っていない。気がつくと、南下して公園の東側にいた。このまま南下すれば、地下街のある通りから帰路に着ける。私は、「柳筋」と書かれたアーチのある通りに入った。その先に待ち受ける驚愕の事実も知らずに。
通りに入ってすぐ、私は一人の中年男性に声を掛けられた。
「おにいさん、どうですか?」
客引きである。もちろんその気はないので愛想笑いで断った。更に進んでいくと、
「にいちゃん、安うしとくで」
また客引きである。手を振って断る。何事かとふと周りをよく見渡すと、そこはソープランドやファッションヘルスがひしめいている。
「げっ、ま、まさか・・・」
私は、あろうことが歓楽街に迷い込んでしまったのだ。通りの両側は全て風俗店、更に私の行く手には数人の客引きが待ち構えているではないか。脇道へ入ろうと目をやると、ますますヤバイ店が軒を連ねている。
「マ、マジかよ・・・」
マジである。私の目深に被った帽子など、いかにもという感じがぷんぷんである。それが目的で来たのならいざ知らず、私はただの迷い人である。仕方なく、私はその柳筋を突っ切る覚悟を決めた。
客引きは、次々とまるでRPGのモンスターのように私の行く手を阻む。この通りを歩いてくる人間に声をかけるのは彼らとしては当然である。だが私にそのつもりは毛頭ないので、頭ごなしに断るしかない。だんだん申し訳ないような気がしてきた。
余計な冷汗をたっぷりとかきながら、私はようやく歓楽街を通り抜け、地下街へ続く通りへ出た。ばつが悪いとはまさにこのことである。私は逃げるように地下へと消えた。

きみのためなら死ねる

確かに、私は24時間ネットの中にいるが、まだまだ知らないことはたくさんある。この記事のタイトルが、まさかゲームのタイトルであるとは信じられない人もいるだろう。
既出のまいやひーFLASHのページで、また奇妙なFLASHを見つけた。絵はさておき、どうにも耳に引っ掛かる音楽である。それは、ゲームの公式サイトで流れているものだった。
早速訪ねてみると、「きみのためなら死ねる」というセガのNintendoDS用ゲームソフトの公式ページだった。一枚で、他に何もリンクがない。と思ったら、隠しリンクが散りばめられていた。どうも恋愛ゲームのようだが、今までのよりH度がかなり高いようだ。とはいえ、乳首がリアルに出てくるようなものではない(当たり前じゃ)。
NintendoDSの特長であるタッチパネル機能をフルに使って、例えば画面に出てくる女の子を触るとかつつくとか、そういうアクションができるらしい。やっぱりかなりH度は高い。モロだの中だのストレートな表現が多い昨今、そういう暗喩なエロはなかなかお目にかかれない。
かつて旧みかつうで、ドリームキャストの不振にあえいでいるセガはハードをやめてソフトハウスに徹しろという記事を書いたことがあるが(残ってたら紹介したい)、私の意見は当たっていたようだ。任天堂でこのようなソフトが出るのも、やはり山内という呪縛が解けたからである。あとは、青少年なんとか委員会みたいなところが、このゲームにチャチャを入れないように警戒しておきたい。
このゲームは恐らく、NintendoDSのキラーソフトになるだろう。実際のところ、やってみたいのは正直なところだ。
きみしね公式 http://kimishine.sega.jp/

バックナンバーズ・いい大人になろうと思う

知り合いの女の子から、コンパニオンの仕事を始めたのでプロフィール用の写真を撮ってくれないかと話がきた。軽い気持ちで受けたが、直前になってそれがかなり重要な写真であることがわかって、私は正直ビビった。
隠さずに言おう、下心はあった。ああ、あったさ(開き直るな)。しかし、それを聞いてから、こいつは真剣にやらないと彼女のために悪いなと思った。もしかすると、私の写真が彼女の運命を左右してしまうかもしれないのだ。
そんな歳になったのかと、思った。そんな責任を負えるのかと、自分に問うた。ほんの一瞬だが、断ろうかとも思った。
撮影当日、ファインダーの中の彼女は、明るくてかわいかった。予算も省みず、四本のフィルムが回った。寒風吹きすさぶ中、三ヵ所のロケ地を移動したが、私の早足に彼女はついてきてくれた。
たった二枚の写真のために、私も彼女も、持てる力を全て出そうとしていた。結果がどうでるかはわからないが、フィルム代の封筒に同封されていたメッセージカードを見て、私は思った。彼女のためにも、いい大人になろうと。
(みかつう9802号)

天草テレビ

私も女子アナは結構好きで、各局一人くらいはひいきがいたりする。天草テレビというインターネット放送局には、恐らく世界最高齢の女子アナがいるそうだ。
以前からそれは知っていたが、最近ギネスブックに申請が登録されそうなニュースがあったので、久しぶりにサイトを訪ねてみた。
世界最高齢の女子アナは、二代目になっていた。今年の5月に、初代の方は亡くなっていたらしい。
最高齢女子アナは話題作りにはいいかも知れないし、実際の現場でも活躍されていると思うが、いかんせん、お年寄りである。十年二十年女子アナを務めるわけにはいかないだろう。となると、どうかなと思うのである。せっかく人気が出ても、半年後に亡くなったりしてしまうかもしれない。
なんか、手放しでニュースを見る気にはなれず、何かが心の中で引っ掛かった。二代目の方には、いつまでも元気でいてもらいたいものだ。
天草テレビ http://www.amakusa.tv/

バックナンバーズ・雑誌と腕時計

以前、女の子と茶席で話していたときに時計の話になって、私が腕時計をしていない理由を尋ねられた。大学の時に買った腕時計が、ものの一月も経たないうちに止ってしまい、電池交換も面倒なのでそのままにしておいたら、別に不自由なく生活できたので、今更欲しいとも思わないし必要とも思わないと答えた。
彼女は、俯き加減で嘲るように笑っていた。
心理学上、かどうかは定かではないが、腕時計というのは自分の恋人に対する考え方を表しているそうだ。腕時計を必要と思わない私は、恋人を必要としていないということになる。きっぱり言っておくが、私は正常である。
これは別の友人から聞いたのだが、雑誌は友人に対する考え方だそうだ。私は、必要なものだけを買って、ずっと置いておくと答えた。これは当たっている。
経済的理由が行動を制限しているのは確かだ。ちょっと興味のあるものなんかは、そういった理由で後回しにしていることが多い。友人も多いと交際費もばかにはならない。こういった例えはなるほど言い得て妙である。
腕時計の話を聞いて以来、私はずっとそのことが頭から離れない。あの場では「そんなことないよ」と一笑したが、冷静に考えて今恋人が欲しいかと考えると、そんなに必死になって欲しいとは思わないのが正直なところだ。延いては、恋人とは自分にとってどういう存在でありえるのか考えたりもする。恋人は友人の延長なのか、友情の行き着く先が愛情なのか、愛は欲しいと思って手に入れるものなのか。
また、恋愛小説を書こうと思った。
(みかつう9705号)