阪神大震災から10年

1995年1月16日、私は神戸の仕事場をそそくさと後にした。和歌山の友人と遊ぶ約束をしていたからだ。いつもより急いで大阪へ向かった。神戸に仕事を持って3年、まだあまり街をよく知らない。そのうち時間をつくってうろうろしてみようと思っていた。
和歌山で友人と落ち合い、夜遅くまで遊んで、眠ったのはいつものように夜更け。だが深いはずの睡眠は、轟音と共に破られた。
「・・・地震やんな?」
揺れは覚えていない。だがゴーっという音がしたのは覚えている。部屋を見渡したが、何も壊れていないし、倒れていない。枕元の棚に立てかけてあるビデオテープすらもそのままだった。友人がテレビをつけた。そこには、信じられない光景が映し出されていた。
昨日まで毎週通っていた神戸の町が、崩れていた。家が、ビルが、高速道路が、崩れていた。
電車が開通するのを待って、昼過ぎに当時住んでいた守口へ戻った。駅から京都の実家へ電話する。京都は震度5だったが、実家は何も被害がなかった。神戸の職場の友人は、みんなは大丈夫だろうか。
守口の部屋は、洋服を掛けていた衝立が倒れ、その煽りで近くのビデオテープの山が崩れ落ちていた。それ以外、物的被害は何もなかった。
夕方、その職場の友人から電話があった。彼を含めて、とりあえずみんな無事だという。私は一安心した。だが、しばらく神戸での仕事はなくなるだろう。再開はいつになるのだろうか。もしかするともうないのかもしれない。テレビは、次第に凄惨な光景を映し出し始めた。
一週間ほどして、職場の友人から請求に来てくれと電話があった。震災で被害を受けている職場へ金を請求しに行く。私は複雑な心境だった。
JRは芦屋-灘間で依然不通だった。芦屋までの車窓の風景は、ところどころ屋根が崩れている家はあったが、それほどではなかった。芦屋から灘まではバスでの代替輸送となる。だがバス乗り場は長蛇の列で、二、三時間待ちということだった。私は、灘まで歩くことにした。
芦屋駅前も比較的被害は軽そうに見えた。しかし、それは国道二号線沿いで一変する。屋根が、私の目線上にある。視界に入る全ての建物が、私と同じ目線にある。いつもなら見上げる店の看板が、手の届くところにある。私は、まるで夢を見ているようだった。
丸い筒状の大きな建造物が、マンションの前に横たわっている。それが非常階段だとわかったとき、私はますます現実感を喪失した。目に見える物の全てが、壊れている。砕かれて、瓦礫が散乱している。その中を、私は歩いている。そして、被災した人々が生活をしている。おかしい。これは絶対におかしい。
職場の友人は、足に怪我をしていたが相変わらず元気そうだった。職場も見た目は変わらなかったが、震災直後はモニターやデッキを収納しているラックが傾いていたそうだ。倒れなかったのは、後ろのケーブルが引っかかっていたからである。倒れていれば、物的損害は相当酷かっただろう。
ゆっくりと話をしたいとも思ったが、交通事情を考えてすぐに出た。下手をすれば帰れなくなってしまう。おかしなものだ。ちょっと離れた大阪では、いつもと同じ生活が続いている。食べるものにも不自由なく、風呂も入れるし、電気もガスも通っている。
神戸が元に戻るのはいつになるのだろうか。また私は神戸で仕事ができるようになるのだろうか。神の名の付く街に対して、あまりにも酷い仕打ちだと、私は天を睨んだ。

みかつう

ツイッターは@crescentwroksだよん

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