それでも体罰は必要だ

体罰とは、字の通り罰である。
その矛先には、罪があるはずである。
件のバスケ部の生徒は、果たしてどんな罪を犯したのだろうか。
どんな罪を犯して、何十発も毎日罰を受けていたのだろうか。
それはもはや体罰ではなく暴力であることは、誰の目にも明白である。
しかし、この世から体罰はなくならない。なくしてはならない。
いや、目を瞑ってはならないのだ。
暴力はいけない、戦争はいけない。世の中、あまりにも安易な論調が跋扈していることに、私は腹が立ってしょうがない。
否定さえしておけば、その先の議論をしなくて済むからだ。
なぜ暴力がいけないのか、なぜ戦争がいけないのか。その存在を認めた上で、なぜいけないかを議論しなければいけない。
確かに、矛先を誤った体罰という名の暴力は排除しなければならない。
しかし、罪を犯した生徒に対して、それを正すときには、体罰も一つの選択肢として必要だ。
建前だけを声高に叫んで事態が解決するはずがない。例え遠回りになろうとも、物事を直視しなければ何の解決にもならない。
教育現場も、家庭も、自治体も、本気になって取り組まない限り、悲劇は必ず繰り返される。
今までがそうだったように。

罪と罰

悪いことをすれば怒られる。
こんな当たり前のことが、実はないがしろにされている。
怒らない大人を子供たちはなめ切って、自分達の思うままにやりたい放題だ。
その結果、先の地震でデマツイートしてしまう子供が出てくる。
その子供は浅知恵があるのか、アカウントを乗っ取られたことにして嘘をつき続けた。
恐らく、今まで親や先生にさえ怒られたことがないのだろう。嘘をつくなと。
なんてかわいそうな子供なんだ。
つまらない公平論は体罰を諸悪の根源にし、その結果がこれだ。
どうか心ある大人たち、その子供を目一杯怒ってやってほしい。
だが悲しいことに、その大人たちも結局、誰からも怒られることなく育ったに違いない。
こんな世の中なら、いっそ終末を迎えたほうがよさそうな気がする。