それは自己顕示か、純粋な善意か

各地で相次いで出没している伊達直人は、子供たちに次々とランドセルを贈っているようだ。
これを単純な美談で済ませていいのだろうかと、あえて火中の栗を拾いたい。
私はボランティア活動には全く興味がない。
エレベータのボタンを押し続けたり、出入り口で鉢合わせた赤の他人のために扉を開けて待っていたりはするが、被災地などに赴いてどうのこうのというのには全く興味がない。
友人に食事を奢ったりすることはあるが、見ず知らずの他人に身銭を切ることは絶対にしない。
今回の伊達直人騒動に関して、もちろん純粋な善意で感化されて行動を起こした方もいるだろう。
だが、私には、テレビのニュースを指差して、あれはわしがやったんや、とほくそえむジジイの姿が浮かんで仕方ないのだ。
ボランティアは、人知れず行うものだと私は思っている。
もし、純粋な善意でランドセルを寄付したいのなら、伊達直人の名を使わずに、そっと玄関先に置いていけばいいだけだ。
なぜそこに伊達直人の名を書くのか。それは善意の奥に、少なからず自己顕示欲が潜んでいるからではないだろうか。
それに、支援や寄付にはいろんな手段があるはずだ。にも関わらず、各都道府県で雨後の筍のように次々と伊達直人が現れる。これではまるで模倣犯である。
ボランティアというのは、決して対価を求めず、全ての情操を内に秘めるものだと私は思う。その無秩序な善意が、時には他人に迷惑をかけることもあり得るのだ。
しかし今回の騒動、最初の人物の本名が伊達直人だったというオチを、私は密かに期待している。